子どものためのおはなし
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夜の東京

12/10/2015

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​ぼくはまだまだ世の中のことを知らないな。何年ぶりかに東京を歩いて、そう思いました。世の中のことがすっかりわかってしまったなどと思い上がっていたつもりはありません。けれど、自分のまわりのことに気をとられてきたこの何年間かのうちに、どこかに「だいたいのことは読みきった」みたいな感覚があったのかもしれないと、振り返ってそう思います。それに気づかせてくれただけでも、今回ひさしぶりに東京に出てきたのはよかったのかもしれません。
いいえ、それほどじっくりと東京の様子を見る時間があったわけではないんですよ。昼前に新幹線で東京に着いて、夜の9時過ぎに用事が終わりました。もう新幹線はありませんから、夜行バスで神戸に帰るつもりで、数時間の空きができたわけです。
バスが出るのは新宿駅の近くです。用事が終わったのは渋谷です。すぐに電車で移動すれば十数分で移動が終わる距離ですが、それでは時間を持て余します。そこでぼくは、新宿まで明治通りを歩いてみることにしました。渋谷の駅前を出たのが10時前ですね。そこから新宿駅まで、ぶらぶら歩いて小一時間の道のりです。
同じ道を、たぶん25年前ぐらいにぼくは歩いています。たぶん、同じような時間帯だったように思います。あるいは昼間にも一度歩いているかもしれません。なにせ古いむかしの話ですからね。そんなにしょっちゅう歩いたことがないのは確かだけれど、歩いたことがあるのも同じくらい確かです。あのころぼくは東京に住んでいて、お金がありませんでした。だから、都内はずいぶんと歩いたものです。歩ける範囲なら歩くのが基本でした。時間がないときだけ、電車や地下鉄を利用したものです。
だから、むかしなじみの道を歩いて「ずいぶんと変わったなあ」というような感慨をもったわけではありません。そこまで見覚えのある街ではないのです。ただ、だいたいの感じはおぼえています。歩けばそれなりにおぼえます。それだけの時間がかかりますからね。ぼくは日本中のあちこちを、そんなふうにしておぼえました。断片的ではあるけれど日本の様子をだいたいはわかっているつもりになっていたとしたら、その裏付けはこんなふうに歩きまわったことにあると言ってもいいのではないかと思います。
ともかくも、今回歩いて驚いたのは夜の東京があまりにも平常モードだったことです。ふつうなんですよ。どういうことでしょうか。
もともと、都会の夜は遅いものです。夜の9時や10時を過ぎても人通りが絶えないのは、いまもむかしも変わりません。けれど、その人通りのようすがまるでちがうのです。
25年前の夜の東京を歩いていたのは、疲れ果てた残業帰りのサラリーマンと酔っ払いでした。店も開いてはいたけれど、その多くは飲み屋を中心とした飲食店であり、それ以外の店はふつう閉まっていました。たまに10時を過ぎても開いているスーパーもありましたが、そういうところでそそくさと買い物をしているのは疲れ果てた通勤帰りの人々でした。
今回びっくりしたのは、ファッション関係を中心に、ごくふつうの小売店がそんな遅い時間になってもふつうに営業していたことです。そして、そういった店で(さすがに数は多くありませんが)、ふつうの客がふつうに買い物をしています。あるいは、ワークスペースで店員がふつうに作業をしています。まるで昼間と変わらないのです。
かつて、夜のオフィスは邪魔されずに仕事に集中できる隔絶された空間でした。そこにあったのは、昼間の世界とはちがう夜ならではの非日常です。非日常が日常となるような業種の人々は疲れ果て、夜の街に流れます。だから、酔っぱらいや酔っ払う暇さえない多忙な人々の流れは、夜の街に殺伐とした空気を醸し出していました。多くの人々は終電車を気にして足を早め、終電車を諦めた人々は半ば自棄気味にフラフラと歩いていました。それが25年前の私の夜の東京の印象です。
今回、夜の東京を通過して、人々の様子が昼間と大差ないのに驚きました。もちろん、酒を飲んでいるらしい人はいます。けれど、それはあの数十年前にはふつうだった酔っ払い連中とはまるで雰囲気がちがいます。そこそこにいい気分になっている様子ではあっても、酔っぱらいから感じられるあの自暴自棄な雰囲気はないのです。夜ですから、帰宅途中らしい人々も確かに少なくありません。けれど、足早に時間を気にしているような人は少数派だし、店に立ち寄っているひとにも切迫感がありません。
昼間と大きくちがうのは、子どもや高齢者がそこに見られないことでしょうか。しかし、そんなことを考えていたら、おっと、子どもがいました。まあ、住人ではなく観光客らしく、決して日常の一部ではありません。けれど、子どもがいてもさして違和感がないぐらいに、夜の街は平常でした。

30年以上も前、大阪から東京に引っ越したときに感じた違和感が、いま思えば私の社会に対する関心の出発点だったように思います。東京の人間は大阪の人間とはちがう。ドブネズミのようなだれもがほとんどちがいのない(そのくせそれを着ている人間には自分のファッションが他人とちがうという強い感覚がある)格好をした通勤客がすし詰めになった地下鉄に乗ったとき、「ここに住んでいれば確かに他の世界のことはわからなくなるかもしれないな」と思ったことを覚えています。そして10年そこに住み、その東京も決して見かけほどに一様ではなく、いろいろな人がいろいろなニッチをつくって生活していることを知りました。だから田舎回りをするようになっても、そこに生活している人々のそれぞれの暮らしの様子を想像していくことができました。いろいろなひとがいろいろな場でそれぞれに一生懸命に生きているその中で、自分というものをゆっくりと考えて、そして私は人よりずいぶん遅れて大人になったのだと思います。
そして長い年月がたち、再び、私には東京がわからなくなりました。なぜこの人たちはこんな時間にこんなに落ち着いて街を歩けるのだろう。私には想像ができません。東京が大きく変わったから、だけではないような気がします。
夜の東京では、いろんな光景に出会います。路上で突然外国人労働者と鉢合わせになり、中東のどこかの国から来た彼に「おまえはどっから来た」と話しかけられ、肩を抱き合って別れたこと、路上で音楽を奏でていた若者からパンを分けてもらったこと、そんなふしぎな出来事があっても、私にはその向こうにある彼らの生活をぼんやりとでも想像することができました。どういうわけだか、いまの私にはそれができません。深夜だというのにレストランの前で行列をつくっている若者や、地下鉄の入り口で話し込んでいる人々の向こうにどんな日常があるのか、靄でもかかったように見えないのです。

明治通りが新宿に近くなったところに、銀杏並木がありました。どの木もそれぞれに大木に成長しています。けれど、ふと足元に目をやると、まるで灌木のように丈の低いところから銀杏が黄色い葉を繁らせています。並木の中の歯抜けのようなその一本は、よく見ると他の木と同じぐらいの大木に成長してから、何年も前に切り倒されたもののようでした。その朽ちかけた切り株からひこばえが生じ、それがずいぶんと低いところに枝を伸ばしていたのです。
私はずいぶんと大人になってしまったような気がします。それがいいこともあるのでしょう。けれど、いっぺん自分という木を切り倒して、そこから何が起こるのか、そういうことも考えてみてもいいのかなと、そのひこばえを見ながら思ったことでした。
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夜の六甲

3/4/2011

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夜の山というのは決して初めてではないんですが、いや、参りました。怖かったです。家からわずか1時間も歩かないところでこんな怖い思いができるとは、六甲も捨てたもんじゃないですね。
なんで、冬、というか早春の夜8時なんて時間に六甲の山の中にいたのかは、聞かないでください。ま、好きで歩いていたわけですから、文句を言っちゃいけないんです。それに、ある程度予想はできていたわけですしね。
はじめはよかったんですよ。暗い山道といっても、ぼくは割と夜目がききますから。ぼんやりと白く見える道をたどるのは、ちっとも難しくありませんでした。何度も通ってる道ですから、間違えることはありません。それに、登り道は案外と楽なんですよね。どっちかというと下り道の方が危ないものです。見えない足元に何があるかわかりませんから。見えないところに踏み出したとき、下り道の方がショックが大きいわけです。登り道なら、踏み間違えても足のばねが吸収してくれます。
ともかくも、最初は森の中の細い道でした。尾根の上で左右に落ち込んでいるんで、森の中からいきなり何かが飛び出してくるような心配はないんですね。いや、飛び出してくるかもしれませんよ。尾根筋というのは獣道でもありますから。でも、飛び出してくるにしても、相手も登り道ですからね。お互い、出会い頭に激突ということはないわけです。
いや、理屈でそんなふうに考えたわけじゃないんですね。左右に木が迫った森の中の細い道は、無条件に安心できるんです。いえ、歩いているときは、そんなことさえ考えませんでした。何の不安もなく、森に抱かれるように歩いていたんです。
急に胸騒ぎを感じたのは、修法ヶ原の手前に来たときでした。なにか、ざわざわと心が波立つわけです。で、歩きながら考えて、その理由はすぐにわかりました。この時期でも、山の猪は休みません。冬の餌の少ない時期、あちこち出没しているはずです。そして、修法ヶ原には、いつもあちこち猪がほじくり返した跡があるのです。夜のうちに猪が活動するフィールドなわけです。
修法ヶ原というのは、六甲の山の中にある公園です。池があって、ボートがあって、広場があって、それなりの憩いの場です。昼間に来れば、街中のちょっと広い公園と雰囲気はそう変わりません。けれど、ロケーションがちがいます。標高500メートルぐらいの山の上です。夜になると様相がガラリと変わるわけです。
ぼくはドキドキしながら、弘法大師の廟の脇を抜け、広いところに出ました。それまでの真っ暗な森とは違って、ところどころに灯りが見えます。トイレと山小屋に、常夜灯がついているようです。けれど、それが実に遠く感じます。そこまでの身を隠すもののない空間が、不安をかきたてます。
そして、案の定、出ました。出たというよりも、音なんです。右手の方、森林事務所のある側の茂みの方で、ガサガサっという音とともに、グォッという唸り声です。この声は初めてじゃありません。間違いなく猪です。ぼくは怯みましたが、足取りを変えずに進みました。やばいなあと思うのです。逃げ隠れできないのです。当然、先方はこっちに気づいて、こっちを見ているはずです。こっちから向こうが見えていない現状は、非常に不利です。
落ち着かないぼくをさらに慌てさせることが起こりました。今度は左手の広場の方で、やっぱり同じようなガサゴソっという音と、グォッという唸りです。やばいです。左右、両側にいるんですよ。
ぼくは夢中で足を早めました。そして最後は軽くダッシュして、ようやくトイレの前まで着きました。建物の向こうに、自動販売機が煌々と光っていました。こんな山の中、誰も来るはずのない夜中に、自動販売機は営業しているんですね。ふだんのぼくならバカバカしいと感じるでしょうし、エネルギーの無駄だ、環境破壊だぐらいの文句は言うと思います。けれど、このときは、この灯りが心底ありがたく感じました。トイレの中の常夜灯よりずっと明るいわけです。この自動販売機を背に、ぼくはすっくと立ちました。連中が突進してきても、この灯りの前なら互角です。トイレの中に逃げ込めば、たぶんぼくの方が有利です。ようやく、負ける気がしなくなりました。
あいかわらず猪の気配は消えません。時折ガサゴソいう音が聞こえます。けれど、彼らの警戒は少し緩んだようです。やっぱり人間は、灯りの下にいるのが似つくのかもしれません。闇の中を歩いている人間は、彼らの方も嫌なのかもしれません。
あまり長くここにいるのも、お互いのストレスを増加させるだけです。ぼくは、そろそろと、しかしはっきりと彼らにわかるように、歩きはじめました。人間の用は済んだ、あとは立ち去るだけだというメッセージをはっきりと示したつもりです。そして、アスファルトの道路までたどり着くと、かなり雰囲気が変わりました。そう、ここなら、彼らがあえてやってくることはないでしょう。アスファルトは、どちらかといえば人間の世界なのですから。

アスファルトの広い道を、ぼくはようやく落ち着いて歩くことができました。だんだんと気配が後ろに消えていきます。ここは安心だという気持ちがだんだんと高まってきました。夜のデートなんでしょうか、車が1台、通り過ぎました。だいじょうぶです。こんなところに猪が突っ込んでくることはありません。

やがて道は、再び細い山道になりました。今度は谷間の道です。これはちょっと嫌なものです。というのは、猪は湿った場所が好きだからです。とはいえ、左右に森の迫った細い道は、あの開けた空間よりも居心地よく感じました。奇妙なものですが、夜の森では人間も野生動物の感覚を取り戻すようです。野生動物は開けたところが苦手です。その気持ちがよくわかるのです。
谷を下って行くと、右手の方でまたガサゴソっという音がしました。猪かもしれません。けれど、ぼくはそれほど不安に感じませんでした。沢を挟んで反対側の斜面だったからです。わざわざこっちまで流れを渡って突っ込んでくることもないでしょう。
道は、再び車道に出ました。ここはそれほど広くはありませんが、最近部分的に舗装したようで、やっぱり人間の世界です。そこそこに安心して進めます。やがて谷を下りきって、ちょっと細い道を抜けたら、市ケ原という川原に出ます。ここで川を渡ったら、もうそこからは街灯がついた道になります。家も何軒かあって、人の気配のする家もありました。こんな人里に野生動物は出ないでしょう。ようやく安心できるところにきました。
そのまま街灯のしっかりついた道を歩き、すぐにダム湖の脇に出ました。ここまでくればもう都心までわずかです。やれやれ、怖い思いをしたと、ぼくは笑い話のように振り返りました。たまたまそこにお稲荷さんがあったので、立ち止まって振り向き、「道中ありがとうございました」と軽く手を合わせたんですね。いや、これがよかったんです。
向き直ると、すぐそこにいたんです。ぼくが立っているのはだいたい街灯の下でしたけど、もうひとつ向こうの街灯の下ぐらいに、筋肉質の黒っぽい塊がいました。ばねのように強靭なその姿は、ぼくの目の前でダム湖と反対側のかなり急な斜面をやすやすと登り、ガサゴソという音ともに闇の中に消えました。
ほんの一瞬のことでした。もしもお稲荷さんの前で立ち止まらずあのまま早足で進んでいたら、間違いなくぼくと猪はお互いに避ける暇もなく真正面から顔を合わせていたことでしょう。
野生動物は臆病なものです。ぼく自身、闇の森の中でその臆病さを感じました。彼らは夜の生き物で、人間は昼間の生きものです。だからこっちが不利で、場違いで、それだけに怖いのですけれど、彼らだって人間とはあまりかかわりあいたくないんだと思います。できれば鉢合わせはしたくないんでしょう。
けれど、突然出会ったら、身を守るために突っ込んでくると思いますよ。特に街灯のついたこんな場所、一方が湖で他方が急斜面というこんなところでは、いわゆる猪突猛進をかましてきても不思議じゃありません。
ぼくがお稲荷さんの前で立ち止まってひとりごとを言ったりしていた時間に、彼はぼくに気づいたんですね。そして自分のいる場所を判断し、斜面を上がる逃げ道を確認していたんでしょう。わずか数秒のその余裕が、危険な正面衝突を回避してくれたわけです。
ぼくは、改めてお稲荷さんに深々と頭を下げました。そして、ダムの方に向かって歩きはじめました。神戸の灯りがぐんぐん迫ってきます。あの光の洪水まで、もう20分も歩けば着けるでしょう。

いや、六甲は怖い場所です。ぼくが人間だから、そして彼らが猪だから。
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