子どものためのおはなし
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「豆になれなかった豆腐」について

5/18/2015

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May 16, 2009投稿の再掲

「豆になれなかった豆腐」は、私のオリジナルではありません。ある晩、小学校1年生になった息子のまことが話してくれたものです。
食卓に出た豆腐、豆からできることは、もうまことは知っています。小学生らしい疑問は、「豆腐を豆に戻せる?」それは無理でしょう。不可逆変化のことを説明してもよかったのですが、そこまでいわなくても、豆腐をつくるときにオカラが出ることことだけで十分だと思いました。つまり、豆からオカラと豆腐ができるのだから、豆腐だけでは豆にならないという理屈です。オカラがないと豆には戻れません。

この説明を聞いたまことが、即興で話してくれたのがこのお話です。色白の大根と風呂に入らないゴボウ、顔の赤いニンジンの話は、どこにでも転がっている昔話ですから、まことのオリジナルとは言えません。けれど、それを巧みに組み合わせてお話に紡いでいく話術には、我が息子ながら感心しました(はい、親バカです)。あんまりよくできているので、夜寝るときにリクエストしたら、またおもしろおかしく話してくれました。ただ、私が途中で寝てしまったので、結末は覚えていません。

ということで、今回書いたものは、まことの話してくれたものとだいぶとちがいます。一応、オチとして「力なく」を「オカラがない」とダジャレにしたつもりではあるのですが、文字面ではわけがわからなくなりました。まことはこんなダジャレに頼らず、話術だけでおもしろくしてくれたので、彼の方が一枚上手です。

お話というのは、ネタだけでなく語り方にも大きく依存するのだと、改めて気づかせてくれた顛末でした。
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「カエルとヘビ」について

5/16/2015

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May 02, 2009投稿の再掲

息子のまことも小学生になり、毎日元気に学校に通っています。保育園とちがってお昼寝がないのと早起きしなければ登校に間に合わないので、早くに寝かすようにしています。ということで、「寝る前の本」もおはなしもなしなのですが、本人はそれが不満なようです。どうしてもとせがまれるので、短い話ならと「カエルとヘビ」をやりました。これは、ずいぶん昔につくったおはなしですが、実はまことに話したことはありません。もっと言葉数の少ない絵本として構想したものです。おはなしとして話すには、かなり言葉を補ってやらねばなりませんでした。イラストの力さえあればテキスト不要でも成り立つようなおはなしなのですが、そういう才能はみつけられずにいます。

このおはなしを思いついたのは、お酒を飲んでいたときです。お酒を飲むとたいていの人は人格が変わりますよね。それを「本性が現れた」というようにいうことがありますけれど、ほんとうなのでしょうか。私は、人間というのは別に隠れた本性なんてなくて、見たままの姿がすべてなんだと思います。お酒を飲んだときや危機に際して別人格が現れるのは、そういう特殊事情で特殊な反応が出ただけで、それを「ほんとうはこういう性格なんだ」と断じるのはちょっとどうなのかなあと思うのです。あるいは、「普段はこんな感じでお酒を飲んだらこんな感じで…」というのをすべてひっくるめて、その人の個性だろうと思います。それを「ほんとうの私はこう」「ほんとうのあなたは…」と本質探しをするのはあまり意味がないなあと思うわけです。

一皮剥けば、その下には別のものが隠されているのかもしれません。けれど、無理に剥かなくってもいいじゃないかと思うのです。剥きつづけてもどんどん話がややこしくなるだけではないでしょうか。それよりも、ありのままを本質としてつきあえばいいのではないでしょうか。

そんなことを思いながらまことにも話して聞かせたのですが、この短い話の結末にたどり着く以前に、彼は寝てしまっていました。小学生というのはそういうものなのでしょうね。
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「魔女のわすれもの」について

5/16/2015

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April 18, 2009投稿の再掲

先週の日曜日、近所の公園に息子のまことと遊びに行ったら、高い木の枝にかさが一本、ひっかかっていました。はしごでももってこないことにはとうてい届くような高さではありません。だから、ふつうではそんなところにかさがかかっているなんて考えられないわけです。まことも私も想像力を刺激され、いろいろと意見を出しました。いずれも納得のいくものではありませんでしたが、その延長でこの「魔女のわすれもの」が生まれました。まあ、現実にはこのおはなしの冒頭に書いたように、だれかがかさを投げ上げたのでしょう(風で飛ばされたにしては、かさはきちんと閉じていましたから)。そして現実には、この公園の桜は、それほど見事ではありませんでした。葉桜になりかかった小さな木が一本あったきりです。だから、このおはなしは、木の枝にぶら下がったかさというシチュエーション以外は、すべてフィクションです。
単純に「枝にぶら下がったかさがおもしろい」というだけのことで、あとはこじつけですから、あまりいい仕上がりという気はしません。たぶん、かさが次々に別のものに変わって最後にかさに戻るという構造をもうちょっと楽しく展開できたらよかったのだと思います。このあたり、想像力が貧困だなあと、我ながら嫌になります。
まあ、気楽なはなしなので、ひょっとしたらウケるかもしれないという気はします。実験してみたいところです。
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「王様とつるぎ」について

5/16/2015

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April 13, 2009投稿の再掲

息子のまことは、よくいえば平和主義者、わるくいえば臆病で、友だちとの喧嘩はもちろん、プロレスごっこのような格闘系の遊びさえほとんどしない子どもです。けれど、この春から小学校に行くようになって、新しいものにどんどん触れるようになり、そこは男の子、「たたかう」シチュエーションを遊びの中にとりいれるようになってきました。どちらかといえば臆病者で、たとえ卑怯と罵られても暴力からは逃げ出してしまう私としては、これも成長と思いながら複雑な心境です。「王様とつるぎ」は、そんな思いの中で浮かんだおはなしです。

舞台は、たぶん、中国内陸部か中東、遊牧民が国境近くに出没するような地域ですが、たぶん該当するような現実の場所はないでしょう。あくまで空想の舞台です。歴史上、平和主義の国、武闘主義の国はいろいろありましたが、おそらく三代続いて完全に武器を放棄した国というのも、またないのではないかと思います(できればそういう国に住みたいと、臆病者の私は思ったりもします)。
書きながら、ああ、このおはなしは、「平和ボケ」と言われる憲法九条をもった現代日本のことを批判した作品だと誤解されるだろうなと感じました。決してそういう意図のもとに創作したものではありません。むしろ、武器の存在そのものが争いを発生させるという単純な事実を訴えたかったのです。ですから、憎むべきは平和の果てに武器の何たるかを忘れてしまった王様とその国の人々ではなく、そこで一儲けしようとビジネスを企んだ商人の方です。ただ、それにうまく乗せられてしまった人々に責がないわけでもありません。このあたり、自分で予想した以上に複雑な話になってしまっています。

商人に、最初から騒乱を引き起こす意図があったとは思えません。有能なビジネスマンは、裸足で暮らす人々を見て靴の一大市場を構想するそうです。この商人は、武器のない国を見て武器の一大市場を構想したのでしょう。武器を売って儲けることが彼のすべてです。ひょっとしたら、本当に、「平和のシンボル」として新たな武器の用途を創造しようとしたのかもしれません。彼自身、平和主義者だったのかもしれないのです。
けれど、人を殺すための道具は、存在するだけで人殺しを引き起こす原因となります。この単純な原理がわかっていない限り、世の中から悲劇はなくならないのだと思うこの頃です。だからまことには、おもちゃであっても鉄砲はもってほしくないし、できれば「たたかう」ような遊びも止めてほしいなあと思うのです。ひょっとしたらそれは愚かな王様をつくるだけなのかもしれないのですけれど。
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「ふとんはがし」について

5/16/2015

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March 24, 2009投稿の再掲

「早く寝ないとオバケが出るぞ!」というのは、おばけ話の古典的なスタイルのひとつでしょう。一昨日の夜、なかなか寝ない息子のまことに向かって、私はそんな話を始めました。ただ、6歳児をお化けでこわがらそうというのも無理な話なので、ここは教育的に、「ふとんはがし」なるお化けを考案しました。子どもというのはだいたいが布団を蹴っ飛ばしてお腹を放り出して寝ているものです。そういうのは困るのだと、お化け話で指導しようとしたのです。
けれど、そんな下心のある私のお話は、まことから「バツ。失格。やりなおし」とダメを出されてしまいました。悔しいので次の日一日かけて考えた話がこの「ふとんはがし」です。

語り口は、どこのくにのことばともつかない怪しいものですが、私はときどきこういう口調でお話をします。絵本にはよく東北や北陸で採取してきた昔話を方言を活かした形で収録したものがありますが、そういうのを真似て話すわけです。もちろん、いんちきで、どこの地方にもこういう話し方は存在しないでしょう。ただ、雰囲気を出すにはけっこう捨て難い手です。

と、昔話の体裁をとっているのですが、これは絶対に昔話ではあり得ません。なぜなら、登場する玉ねぎは、明治以降に普及したものだからです。「庄屋どん」がいた江戸時代に、農村で玉ねぎがつくられることはありませんでした。だから、「剥いても剥いても涙が出るばかり」というギャグは、基本的に西洋化以後のものなのです。

「ふとんはがし」という化け物はそれなりに魅力的なので、いつかもっとふさわしい物語を考えたいものだと思います。
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「おしまいのお話」について

5/16/2015

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March 22, 2009投稿の再掲

「おしまいのお話」は、薪ストーブのおはなし会とは関係のない、古いネタです。虫干しとしてアップしました。あるネタの尽きた夜、ほとんどやけくそでつくったナンセンス話です。「おはなしして」「もうおしまい」「おはなし」「だから、おしまい」「じゃあ、おしまいのはなしして」というようなバトルの末に生まれました。便利なので、「もうこれ以上は話さない」という意思表示用に何度か使っています。ですから、長くも短くもできる、比較的自由自在な話です。もちろん、必要があればピンチヒッターでおはなし会に使おうとは思っていました。

骨格は、最初は仲の良かった「はじまり」と「おしまい」が、仲が悪くなって離れてしまった(だからおはなしが長くなった)ということです。これを、「最後には仲直りしたので、はじまりとおしまいは一緒になった。だからここから先の話は、始まったらすぐに終わる」と、おしまいの終結宣言にしてしまうことも可能です。そして、「はじまり」と「おしまい」の仲違いの原因はなんだって構わないわけです。
このストーリーでは、「はじまり」が、いわゆる現代の競争原理に毒されてしまったせいで仲違いが起こることになっています。競争に打ち克とうとする努力は大切なことかもしれませんが、競争は結局は勝者と敗者しか生み出しません。皆が幸せになる原理ではないというのは、大人が言わなくても子どもはちゃんとわかているようですね。
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「宝を守った話」について

5/16/2015

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March 19, 2009投稿の再掲

「宝を守った話」は、今回の薪ストーブのおはなし会に向けてつくったものです。使用しなかった理由は、適当なタイミングがなかったこともありますが、何よりも長くなりすぎたことです。実際、これを息子のまことに話したら、45分もかかってしまいました。そのせいで寝るのが遅くなり、翌朝起きられないのではないかとヒヤヒヤしました。

薪かストーブのどちらかにちなんだお話ということで「消えないストーブ」、「おばあさんの薪ストーブ」、「赤い手袋」などのおはなしをつくったのですが、これらはグリム風であったり、現代のエッセイであったりします。ところがまことがいちばん好きなのは、日本昔話系の物語なのです。そこで、真っ先に考えたのはそういった醤油味のおはなしができないかなということでした。

もちろんそんな昔の日本には薪ストーブはありません。だから、薪の話になるわけですが、薪といえば最初に思い出すのが「太閤記」の若き藤吉郎が薪奉行を任されるというエピソードです。藤吉郎は実地に村々を回って、年貢として差し出す薪が人々の負担になっていることを確かめます。その上で、城の近くの村には薪を、遠くの村には炭をというように税配分を調節し、収税効率を高めたということです。もっともこれは、中国の古典に元ネタがあるらしく、太閤記作者が創作として付け加えたものだそうです。けれど、子ども心にこのエピソードは心に残っています(子ども向けの古典シリーズで読みました)。

だから、舞台は山村で、薪や炭を年貢に差し出す話と骨格が決まりました。できるだけ話を単純にしようと思ったので、ここは主人公の危機を動物に三度助けられるというよくあるパターンを使おうと思いました。動物に助けられるには、浦島太郎のように善行がなければなりません。そういった必要性から「村の宝」というアイデアが生まれ、話がほぼまとまりました。

そこですぐに「おはなし」デビューさせればよかったのですが、ちょっと自信がなかったもので、まずテキストを書こうと思いました。ところが、書き始めると、いろいろと細かなところが気になってきます。時代設定をどうするのかとか、突然あらわれる武士団をどう規定しようかとか、いろいろと考えてしまいます。考えた割には考証が非常にいい加減なものになってしまいました(「とのさま」は戦国武将らしいので、時代は室町末期でしょう。けれど「雑徭」は律令制の税制のはずです。「木地師」は確かに山の中に暮らしていましたが通常は小集団での移動生活で、百人を越える屈強の男が揃うことなどなかったはずです。薪の一束は現在の流通単位で、室町の日本でどういう単位で薪が扱われていたのかは調べもしませんでした。火事場の消し炭がきちんとした炭に焼けることはまずありえないでしょう)が、細かなことに辻褄を合わせていこうと思ったらどんどん話が長くなってしまったわけです。

この山村のイメージは京都北部のある山間地の集落から借りてきました。とはいえ、実際にはこういったある種の革命を成功させた地域は、おそらく日本史には存在しないでしょう。とのさまである支配者を追い出しても、それは新たな別の支配者に属するということにしかならなかったようです。ただ、不当な支配に対しては蜂起しても構わないという暗黙のルールのようなものが、中世の日本には存在したようです。最終的にそういった「一揆」の指導者は処刑されねばならないというのもルールの一部でしたが、それを踏まえた上でなら、反逆にも道理が認められていたのです。長い物に巻かれてよしとする現代の日本よりは、よっぽど気骨のあった時代が、確かにこのくにには存在したのだと思います。

こんなに長くなってしまったので「おはなし会」にはもう無理ですが、どこかで機会があれば使ってみたいなとは思います。聞きながらまことが「先が楽しみでワクワクする」と言ってくれたおはなしなので。
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「重吾さんのストーブ」について

5/16/2015

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March 17, 2009投稿の再掲

「重吾さんのストーブ」に登場する重吾さんは、実在の人物です。その筋ではかなりの有名人なのですが、残念なことにWebの時代、Googleで検索をかけてもほとんど情報は出てきません。Webの情報というのはけっこう偏っているもののようですね。

私がたいへんお世話になった宮本重吾さんは、1年前にお亡くなりになりました。ここ数年はたいへんご無沙汰していましたので、私はそのことを知らず、つい先日、知人から聞かされて驚きました。不思議なもので、重吾さんが亡くなったころからときどき重吾さんのことを思い出し、いちど連絡をしなければと思っていました。それだけに余計に残念ですが、まあ人生とはそういうものかもしれません。

そんな思いがあったせいか、息子のまことを相手に薪ストーブのネタでおはなしをつくろうとしていた夜、重吾さんのことが出てきました。だから、このおはなしの枠組みは、実際に私が重吾さんの農場に居候していたときのことを使っています。

ただ、実際に重吾さんがこういう話をしてくれたかといえば、それは虚構ということになります。おはなしの中にも書いたように、重吾さんは非常に忙しい人で、常に用事が先に来ました。活動の構想がどんどん出てくるので、そっちの方が話の中心になってしまうわけです。ですから、重吾さんの家があったむらの史実に関しては、私はほとんど知りません。この部分も虚構ということになります。

しかし、たどった道筋は大きくはずしていないつもりです。1960年前後から急速に衰退した山村の近代史は、あちこちで聞きました。このおはなしの直接の下敷きにしたのは京都北部の小さなむらの歴史ですが、似たような話は別の京都のむらでも、兵庫県の山間地でも、あるいは東北のむらでもあったと聞きます。電気やプロパンガス、自動車や農業機械といった文明の利器がやってくるとほとんど踵を接するようにして、多くの山村の衰退がやってきました。それは、こういった文明の利器が直接手を下したのではありません。そういった文明の利器がもたらした生活スタイルの変化が、山村の生活基盤を破壊してしまったのです。だから、これは廃村になってしまったへんぴなむらだけの話ではなく、現在は都会に住む私たちの暮らしに直結した歴史でもあるわけなのです。

そういった歴史を伝える相手として、6歳の保育園児は幼すぎるかもしれません。けれど、まことは熱心に聞いてくれました。それはきっと、父親の若いころの話を聞くのが興味深いという側面があったからに違いありません。私がときどき、妻と重吾さんのことを話していたからかもしれません。あるいは、「どんどん便利になると、どんどん不便になっていく」という逆説的な話の進行がおもしろかったのかもしれません。もしもそうだとしたら、このおはなしは成功なのですが、さて、実際はどうだったのでしょう。

おはなし会を始める前に、このネタは完成していました。ですから、「いつでも出せる」予備のネタとしてずっと待機はしていたのです。ただ、機会がありませんでした。息子以外の子どもたちならどう反応したかは、非常に気になるところです。来年、機会があれば試してみたいと思います。

ちなみに、重吾さんは、いわゆる「有機農業」をする百姓でした。破天荒なアイデアを次々に打ち出し、「世直し」をするのだと日本中を駆けずり回りました。毀誉褒貶さまざまありますが、私は重吾さんからずいぶんいろんなことを学ばせていただきました。もっとも、もしも彼がこのおはなしを読んだら、「君は私の言うことをちっとも聞いとらんな」と呆れることでしょうけれど。
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「大きな石」について

5/16/2015

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March 14, 2009投稿の再掲

「大きな石」は、特におはなし会のためにつくったというわけではありませんが、たまたまこの時期にできたので、機会があれば使おうと思って用意していたネタです。けれど、結局使いませんでした。

このおはなしは、友だちの愚痴に、「亭主なんて道の真ん中に転がってる大きな石みたいなもんだよ。蹴っ飛ばしても怪我するだけ損だから」とレスを返したことから思いつきました。私自身が家庭内では邪魔っけなごろた石みたいな存在ですから、人にそう言ったあと、ちょっと落ち込んでしまったわけです。そんな石ころに何か存在意義はないのだろうかと思い悩んだあげく、「まあ、腰掛けぐらいの役には立つかも」と。

もっとも、人の愚痴というのは、決して真に受けるべきものではないのかもしれません。このおはなしのおばあさんも、「邪魔っけな石」と愚痴をこぼしながらも、最終的にはこの石を受け入れているのですからね。
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「赤い手袋」について

5/16/2015

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March 12, 2009投稿の再掲

「赤い手袋」は、今回のおはなし会のためにつくったものですが、結局使いませんでした。つくるにはつくったけれど、山場のないおはなしなので、いまひとつ、子どもの注意を引きつける自信がなかったからです。たぶん、おはなしにのってきた後なら使えるのではないかと思います。タイミングを選ぶおはなしなので、今回はそれを見つけられなかったわけです。

せっかくの薪ストーブのおはなし会なので、できれば薪かストーブのどちらかに関係のあるおはなしを選ぼうと思っていました。そういうものがあまりないので、ではつくろうと思って自分の中のストーブの記憶をたどってみると、遠い昔、それこそ5歳か6歳の冬に、ローカルな小さなスキー場に連れていかれたことが蘇ってきました。ここ十数年はスキー場など近くにも寄っていないのでどんなふうになっているのかは知らないのですが、40年も前のスキー場には「ロッジ」と呼ばれる休憩用の小屋が各所にあって、そこでは大きなストーブがガンガンと燃えていたものです。当時のスキーウェアは防水がよくなかったので、そのストーブのまわりにはたくさんの濡れものが干してありました。わずかの休憩時間の間に少しでも乾かそうと、そこらじゅうに手袋やらヤッケやらが引っ掛けてあったものです。革のこげるような独特のにおいがしたのも覚えています。

小さな子どもにとって、スキー場は決して楽しいものではありませんでした。寒くて冷たくて、おまけに足元はつるつる滑って怖いし、大人たちはどんどん滑りに行ってしまうし、橇を与えられて「ここで遊んでなさい」と言われてもちっとも楽しくありませんでした。スキーが楽しいと思えるようになったのは小学校も高学年になってからのように思います。ロッジにしたところで、大きな大人で混み合っていて座るところもなく、床は融けた雪でじっとりと湿っていて、居心地のいいところではありませんでした。

このスキー場にはもう少し大きくなってからも行く機会があったのですが、ロッジが案外と小さいことに驚いたものです。そして、5歳ぐらいの子どもにとっては何もかもが巨大に見えるのだということを納得したものでした。だから、子ども心には溶鉱炉ぐらいあるように思えたストーブの大きさも、実際にはそんなに大きくはなかったのでしょう。確か薪か石炭を燃やしていたと思いますが、再訪したときにはもう石油ストーブだったのかもしれません。

このおはなしは、そんな子どもの心細さを描き出そうとしたものです。ただ、それだけでは話になりませんので、手袋を中心にして、主人公が大人に話しかける勇気をもつ過程をストーリーの中心にもってきました。

子どもが成長する過程でもっとも身につけてほしい技術は、コミュニケーションの方法です。他者とコミュニケーションをとることができる子どもは、日常でのストレスも少なく、よりのびやかに育っていけると思います。ですから、これは何よりも先駆けて身につけるべき生きる力の基本だと思うのです。

そのためには、過度に防衛的にならず、どんな相手に対してもある部分は対等の一人の人間として自分を位置付けることができなければなりません。つまり、小さな自信が必要なのです。根拠は不要です。根拠のない自信があることで他者とのコミュニケーションが正常に働き、そしてそれが本当の、根拠のある自信をつくっていき、やがてそれが成長の過程でアイデンティティをつくりあげていくのだと思います。

このおはなしでは、主人公のそんな小さな自信の発生源をストーブの暖かさに求めました。暖かさから生まれる安心感の中で、根拠もなく自信がわいてくるのです。何だか合理的ではない話ですが、でも、そういうことってありません?
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    おはなしの作者です。ここでは、裏話とか日記とかを書いていきます。

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