夜の山というのは決して初めてではないんですが、いや、参りました。怖かったです。家からわずか1時間も歩かないところでこんな怖い思いができるとは、六甲も捨てたもんじゃないですね。
なんで、冬、というか早春の夜8時なんて時間に六甲の山の中にいたのかは、聞かないでください。ま、好きで歩いていたわけですから、文句を言っちゃいけないんです。それに、ある程度予想はできていたわけですしね。
はじめはよかったんですよ。暗い山道といっても、ぼくは割と夜目がききますから。ぼんやりと白く見える道をたどるのは、ちっとも難しくありませんでした。何度も通ってる道ですから、間違えることはありません。それに、登り道は案外と楽なんですよね。どっちかというと下り道の方が危ないものです。見えない足元に何があるかわかりませんから。見えないところに踏み出したとき、下り道の方がショックが大きいわけです。登り道なら、踏み間違えても足のばねが吸収してくれます。
ともかくも、最初は森の中の細い道でした。尾根の上で左右に落ち込んでいるんで、森の中からいきなり何かが飛び出してくるような心配はないんですね。いや、飛び出してくるかもしれませんよ。尾根筋というのは獣道でもありますから。でも、飛び出してくるにしても、相手も登り道ですからね。お互い、出会い頭に激突ということはないわけです。
いや、理屈でそんなふうに考えたわけじゃないんですね。左右に木が迫った森の中の細い道は、無条件に安心できるんです。いえ、歩いているときは、そんなことさえ考えませんでした。何の不安もなく、森に抱かれるように歩いていたんです。
急に胸騒ぎを感じたのは、修法ヶ原の手前に来たときでした。なにか、ざわざわと心が波立つわけです。で、歩きながら考えて、その理由はすぐにわかりました。この時期でも、山の猪は休みません。冬の餌の少ない時期、あちこち出没しているはずです。そして、修法ヶ原には、いつもあちこち猪がほじくり返した跡があるのです。夜のうちに猪が活動するフィールドなわけです。
修法ヶ原というのは、六甲の山の中にある公園です。池があって、ボートがあって、広場があって、それなりの憩いの場です。昼間に来れば、街中のちょっと広い公園と雰囲気はそう変わりません。けれど、ロケーションがちがいます。標高500メートルぐらいの山の上です。夜になると様相がガラリと変わるわけです。
ぼくはドキドキしながら、弘法大師の廟の脇を抜け、広いところに出ました。それまでの真っ暗な森とは違って、ところどころに灯りが見えます。トイレと山小屋に、常夜灯がついているようです。けれど、それが実に遠く感じます。そこまでの身を隠すもののない空間が、不安をかきたてます。
そして、案の定、出ました。出たというよりも、音なんです。右手の方、森林事務所のある側の茂みの方で、ガサガサっという音とともに、グォッという唸り声です。この声は初めてじゃありません。間違いなく猪です。ぼくは怯みましたが、足取りを変えずに進みました。やばいなあと思うのです。逃げ隠れできないのです。当然、先方はこっちに気づいて、こっちを見ているはずです。こっちから向こうが見えていない現状は、非常に不利です。
落ち着かないぼくをさらに慌てさせることが起こりました。今度は左手の広場の方で、やっぱり同じようなガサゴソっという音と、グォッという唸りです。やばいです。左右、両側にいるんですよ。
ぼくは夢中で足を早めました。そして最後は軽くダッシュして、ようやくトイレの前まで着きました。建物の向こうに、自動販売機が煌々と光っていました。こんな山の中、誰も来るはずのない夜中に、自動販売機は営業しているんですね。ふだんのぼくならバカバカしいと感じるでしょうし、エネルギーの無駄だ、環境破壊だぐらいの文句は言うと思います。けれど、このときは、この灯りが心底ありがたく感じました。トイレの中の常夜灯よりずっと明るいわけです。この自動販売機を背に、ぼくはすっくと立ちました。連中が突進してきても、この灯りの前なら互角です。トイレの中に逃げ込めば、たぶんぼくの方が有利です。ようやく、負ける気がしなくなりました。
あいかわらず猪の気配は消えません。時折ガサゴソいう音が聞こえます。けれど、彼らの警戒は少し緩んだようです。やっぱり人間は、灯りの下にいるのが似つくのかもしれません。闇の中を歩いている人間は、彼らの方も嫌なのかもしれません。
あまり長くここにいるのも、お互いのストレスを増加させるだけです。ぼくは、そろそろと、しかしはっきりと彼らにわかるように、歩きはじめました。人間の用は済んだ、あとは立ち去るだけだというメッセージをはっきりと示したつもりです。そして、アスファルトの道路までたどり着くと、かなり雰囲気が変わりました。そう、ここなら、彼らがあえてやってくることはないでしょう。アスファルトは、どちらかといえば人間の世界なのですから。
アスファルトの広い道を、ぼくはようやく落ち着いて歩くことができました。だんだんと気配が後ろに消えていきます。ここは安心だという気持ちがだんだんと高まってきました。夜のデートなんでしょうか、車が1台、通り過ぎました。だいじょうぶです。こんなところに猪が突っ込んでくることはありません。
やがて道は、再び細い山道になりました。今度は谷間の道です。これはちょっと嫌なものです。というのは、猪は湿った場所が好きだからです。とはいえ、左右に森の迫った細い道は、あの開けた空間よりも居心地よく感じました。奇妙なものですが、夜の森では人間も野生動物の感覚を取り戻すようです。野生動物は開けたところが苦手です。その気持ちがよくわかるのです。
谷を下って行くと、右手の方でまたガサゴソっという音がしました。猪かもしれません。けれど、ぼくはそれほど不安に感じませんでした。沢を挟んで反対側の斜面だったからです。わざわざこっちまで流れを渡って突っ込んでくることもないでしょう。
道は、再び車道に出ました。ここはそれほど広くはありませんが、最近部分的に舗装したようで、やっぱり人間の世界です。そこそこに安心して進めます。やがて谷を下りきって、ちょっと細い道を抜けたら、市ケ原という川原に出ます。ここで川を渡ったら、もうそこからは街灯がついた道になります。家も何軒かあって、人の気配のする家もありました。こんな人里に野生動物は出ないでしょう。ようやく安心できるところにきました。
そのまま街灯のしっかりついた道を歩き、すぐにダム湖の脇に出ました。ここまでくればもう都心までわずかです。やれやれ、怖い思いをしたと、ぼくは笑い話のように振り返りました。たまたまそこにお稲荷さんがあったので、立ち止まって振り向き、「道中ありがとうございました」と軽く手を合わせたんですね。いや、これがよかったんです。
向き直ると、すぐそこにいたんです。ぼくが立っているのはだいたい街灯の下でしたけど、もうひとつ向こうの街灯の下ぐらいに、筋肉質の黒っぽい塊がいました。ばねのように強靭なその姿は、ぼくの目の前でダム湖と反対側のかなり急な斜面をやすやすと登り、ガサゴソという音ともに闇の中に消えました。
ほんの一瞬のことでした。もしもお稲荷さんの前で立ち止まらずあのまま早足で進んでいたら、間違いなくぼくと猪はお互いに避ける暇もなく真正面から顔を合わせていたことでしょう。
野生動物は臆病なものです。ぼく自身、闇の森の中でその臆病さを感じました。彼らは夜の生き物で、人間は昼間の生きものです。だからこっちが不利で、場違いで、それだけに怖いのですけれど、彼らだって人間とはあまりかかわりあいたくないんだと思います。できれば鉢合わせはしたくないんでしょう。
けれど、突然出会ったら、身を守るために突っ込んでくると思いますよ。特に街灯のついたこんな場所、一方が湖で他方が急斜面というこんなところでは、いわゆる猪突猛進をかましてきても不思議じゃありません。
ぼくがお稲荷さんの前で立ち止まってひとりごとを言ったりしていた時間に、彼はぼくに気づいたんですね。そして自分のいる場所を判断し、斜面を上がる逃げ道を確認していたんでしょう。わずか数秒のその余裕が、危険な正面衝突を回避してくれたわけです。
ぼくは、改めてお稲荷さんに深々と頭を下げました。そして、ダムの方に向かって歩きはじめました。神戸の灯りがぐんぐん迫ってきます。あの光の洪水まで、もう20分も歩けば着けるでしょう。
いや、六甲は怖い場所です。ぼくが人間だから、そして彼らが猪だから。
なんで、冬、というか早春の夜8時なんて時間に六甲の山の中にいたのかは、聞かないでください。ま、好きで歩いていたわけですから、文句を言っちゃいけないんです。それに、ある程度予想はできていたわけですしね。
はじめはよかったんですよ。暗い山道といっても、ぼくは割と夜目がききますから。ぼんやりと白く見える道をたどるのは、ちっとも難しくありませんでした。何度も通ってる道ですから、間違えることはありません。それに、登り道は案外と楽なんですよね。どっちかというと下り道の方が危ないものです。見えない足元に何があるかわかりませんから。見えないところに踏み出したとき、下り道の方がショックが大きいわけです。登り道なら、踏み間違えても足のばねが吸収してくれます。
ともかくも、最初は森の中の細い道でした。尾根の上で左右に落ち込んでいるんで、森の中からいきなり何かが飛び出してくるような心配はないんですね。いや、飛び出してくるかもしれませんよ。尾根筋というのは獣道でもありますから。でも、飛び出してくるにしても、相手も登り道ですからね。お互い、出会い頭に激突ということはないわけです。
いや、理屈でそんなふうに考えたわけじゃないんですね。左右に木が迫った森の中の細い道は、無条件に安心できるんです。いえ、歩いているときは、そんなことさえ考えませんでした。何の不安もなく、森に抱かれるように歩いていたんです。
急に胸騒ぎを感じたのは、修法ヶ原の手前に来たときでした。なにか、ざわざわと心が波立つわけです。で、歩きながら考えて、その理由はすぐにわかりました。この時期でも、山の猪は休みません。冬の餌の少ない時期、あちこち出没しているはずです。そして、修法ヶ原には、いつもあちこち猪がほじくり返した跡があるのです。夜のうちに猪が活動するフィールドなわけです。
修法ヶ原というのは、六甲の山の中にある公園です。池があって、ボートがあって、広場があって、それなりの憩いの場です。昼間に来れば、街中のちょっと広い公園と雰囲気はそう変わりません。けれど、ロケーションがちがいます。標高500メートルぐらいの山の上です。夜になると様相がガラリと変わるわけです。
ぼくはドキドキしながら、弘法大師の廟の脇を抜け、広いところに出ました。それまでの真っ暗な森とは違って、ところどころに灯りが見えます。トイレと山小屋に、常夜灯がついているようです。けれど、それが実に遠く感じます。そこまでの身を隠すもののない空間が、不安をかきたてます。
そして、案の定、出ました。出たというよりも、音なんです。右手の方、森林事務所のある側の茂みの方で、ガサガサっという音とともに、グォッという唸り声です。この声は初めてじゃありません。間違いなく猪です。ぼくは怯みましたが、足取りを変えずに進みました。やばいなあと思うのです。逃げ隠れできないのです。当然、先方はこっちに気づいて、こっちを見ているはずです。こっちから向こうが見えていない現状は、非常に不利です。
落ち着かないぼくをさらに慌てさせることが起こりました。今度は左手の広場の方で、やっぱり同じようなガサゴソっという音と、グォッという唸りです。やばいです。左右、両側にいるんですよ。
ぼくは夢中で足を早めました。そして最後は軽くダッシュして、ようやくトイレの前まで着きました。建物の向こうに、自動販売機が煌々と光っていました。こんな山の中、誰も来るはずのない夜中に、自動販売機は営業しているんですね。ふだんのぼくならバカバカしいと感じるでしょうし、エネルギーの無駄だ、環境破壊だぐらいの文句は言うと思います。けれど、このときは、この灯りが心底ありがたく感じました。トイレの中の常夜灯よりずっと明るいわけです。この自動販売機を背に、ぼくはすっくと立ちました。連中が突進してきても、この灯りの前なら互角です。トイレの中に逃げ込めば、たぶんぼくの方が有利です。ようやく、負ける気がしなくなりました。
あいかわらず猪の気配は消えません。時折ガサゴソいう音が聞こえます。けれど、彼らの警戒は少し緩んだようです。やっぱり人間は、灯りの下にいるのが似つくのかもしれません。闇の中を歩いている人間は、彼らの方も嫌なのかもしれません。
あまり長くここにいるのも、お互いのストレスを増加させるだけです。ぼくは、そろそろと、しかしはっきりと彼らにわかるように、歩きはじめました。人間の用は済んだ、あとは立ち去るだけだというメッセージをはっきりと示したつもりです。そして、アスファルトの道路までたどり着くと、かなり雰囲気が変わりました。そう、ここなら、彼らがあえてやってくることはないでしょう。アスファルトは、どちらかといえば人間の世界なのですから。
アスファルトの広い道を、ぼくはようやく落ち着いて歩くことができました。だんだんと気配が後ろに消えていきます。ここは安心だという気持ちがだんだんと高まってきました。夜のデートなんでしょうか、車が1台、通り過ぎました。だいじょうぶです。こんなところに猪が突っ込んでくることはありません。
やがて道は、再び細い山道になりました。今度は谷間の道です。これはちょっと嫌なものです。というのは、猪は湿った場所が好きだからです。とはいえ、左右に森の迫った細い道は、あの開けた空間よりも居心地よく感じました。奇妙なものですが、夜の森では人間も野生動物の感覚を取り戻すようです。野生動物は開けたところが苦手です。その気持ちがよくわかるのです。
谷を下って行くと、右手の方でまたガサゴソっという音がしました。猪かもしれません。けれど、ぼくはそれほど不安に感じませんでした。沢を挟んで反対側の斜面だったからです。わざわざこっちまで流れを渡って突っ込んでくることもないでしょう。
道は、再び車道に出ました。ここはそれほど広くはありませんが、最近部分的に舗装したようで、やっぱり人間の世界です。そこそこに安心して進めます。やがて谷を下りきって、ちょっと細い道を抜けたら、市ケ原という川原に出ます。ここで川を渡ったら、もうそこからは街灯がついた道になります。家も何軒かあって、人の気配のする家もありました。こんな人里に野生動物は出ないでしょう。ようやく安心できるところにきました。
そのまま街灯のしっかりついた道を歩き、すぐにダム湖の脇に出ました。ここまでくればもう都心までわずかです。やれやれ、怖い思いをしたと、ぼくは笑い話のように振り返りました。たまたまそこにお稲荷さんがあったので、立ち止まって振り向き、「道中ありがとうございました」と軽く手を合わせたんですね。いや、これがよかったんです。
向き直ると、すぐそこにいたんです。ぼくが立っているのはだいたい街灯の下でしたけど、もうひとつ向こうの街灯の下ぐらいに、筋肉質の黒っぽい塊がいました。ばねのように強靭なその姿は、ぼくの目の前でダム湖と反対側のかなり急な斜面をやすやすと登り、ガサゴソという音ともに闇の中に消えました。
ほんの一瞬のことでした。もしもお稲荷さんの前で立ち止まらずあのまま早足で進んでいたら、間違いなくぼくと猪はお互いに避ける暇もなく真正面から顔を合わせていたことでしょう。
野生動物は臆病なものです。ぼく自身、闇の森の中でその臆病さを感じました。彼らは夜の生き物で、人間は昼間の生きものです。だからこっちが不利で、場違いで、それだけに怖いのですけれど、彼らだって人間とはあまりかかわりあいたくないんだと思います。できれば鉢合わせはしたくないんでしょう。
けれど、突然出会ったら、身を守るために突っ込んでくると思いますよ。特に街灯のついたこんな場所、一方が湖で他方が急斜面というこんなところでは、いわゆる猪突猛進をかましてきても不思議じゃありません。
ぼくがお稲荷さんの前で立ち止まってひとりごとを言ったりしていた時間に、彼はぼくに気づいたんですね。そして自分のいる場所を判断し、斜面を上がる逃げ道を確認していたんでしょう。わずか数秒のその余裕が、危険な正面衝突を回避してくれたわけです。
ぼくは、改めてお稲荷さんに深々と頭を下げました。そして、ダムの方に向かって歩きはじめました。神戸の灯りがぐんぐん迫ってきます。あの光の洪水まで、もう20分も歩けば着けるでしょう。
いや、六甲は怖い場所です。ぼくが人間だから、そして彼らが猪だから。