春です。公園の桜が咲きました。こぼれんばかりに、枝いっぱいに咲きそろいました。いよいよ春です。けれど、ほとんどの木は、まだはだかんぼう。桜の木の向かいにも、まだ芽のふかないニレの木があります。灰色の枝が灰色の夕空に向かって伸びていて、ちょっと寒そうです。
公園に、にぎやかな声がひびきました。子どもたちです。ぐるぐる走りまわります。おにごっこでもしているのでしょうか。やがて、ひとりの子どもが輪を抜け出しました。かさをもっています。別の子が追いぬきざまに、そのかさをひったくりました。そのうしろから、小さな男の子が追いかけます。おやおや、泣きそうな顔です。
かさをもっていた子が、ニレの木の下で立ち止まりました。小さな子がようやく追いつきます。
「かえして」
けれど、大きな子はかえしません。もういちど、小さな子が言います。
「かえして」
大きな子は、一歩前に進み、かさをさしだすふりをしました。小さな子は手をのばしました。かさをつかもうとしたそのとき、大きな子は思いっきりかさを真上に投げ上げました。かさはまっすぐに飛んでいき、ニレの木の高い枝にひっかかりました。
「じゃあな」
大きな子たちは、あわてたように走って行ってしまいました。あとにはぽつんと、小さな男の子がひとり、残りました。
男の子は、何も言わず、じっとかさを見上げていました。どうしたって、手は届きそうにありません。いくつにも分かれた細い枝の先です。木登りしたってぜったいに無理でしょう。風がふいて、枝がゆれました。桜の木からは、花びらが吹雪のようにまいおちてきます。けれど、かさがおちてくるようすはありません。
小さな男の子は、しばらくそうやってニレの木の下に立っていました。だんだん顔がゆがんできました。うつむいて、地面をけっとばして、それから急に走り出して、公園から消えていきました。
夜です。公園の桜が街灯に照らされています。白くうかびあがった花は、息をのむ美しさです。ネクタイをゆるめた男の人が、花の下を通りました。おそい帰り道を急いでいるのです。かばんをだいじにかかえています。遠くで最終電車が通りました。猫が一匹、公園のさくをこえました。
すっと、音もなく街灯が消えました。猫は、ふしぎそうに見上げました。桜の花びらが、何枚かおちてきました。雨はまだ、おちてきません。風はすっかり止まっています。
空を、黒い影が横切りました。ひとつ、またひとつ。音もなく、なにかが飛んでいくのです。
みっつめの影は、低いところを飛んできました。公園のふじだなの真上で向きをかえて、谷の方に向かいます。と、急にスピードをおとし、戻ってくると、ニレの木のそばにとまりました。黒い服を着て、黒い帽子をかぶったおばあさんです。ほうきにまたがって、ちょうどこずえの高さぐらいにうかんでいます。魔女にちがいありません。
「これは助かった」
魔女は低く笑いました。
「雨にふられちゃ、かなわないからね」
そして魔女は、手をのばしてニレの枝にかかったかさをとりました。
「だれのか知らないけど、ちょっと借りていくよ」
そうつぶやいて、ほうきをもういちど、谷の方に向けました。たちまち黒い影は見えなくなりました。
魔女が気がつかなかったのは、かさをつかんだときに、ぼうしが木の枝に引っかかったことでした。すっぽりぼうしがぬげてしまったことに気がつかず、魔女は飛んでいってしまったのです。
またひとつ、黒い影が夜空を横切りました。今夜は魔女のあつまりがあるのでしょう。
また魔女がひとり、公園に向かっておりてきました。何か見つけたようです。ニレの木のそばにほうきを止めると、あたりを見回しました。
「おや、だれかがぼうしをわすれてるよ」
魔女は言いました。
「だめだよ、こんなだいじな夜にきちんとしたかっこうをしていないなんてね。そうだ、もってってあげましょう」
魔女は、ぼうしをとろうと手をのばしました。けれど、うまくつかめません。そこでこんどは、ハンドバッグを近くの枝にひっかけて、片手で枝を引きよせ、もう一方の手でぼうしをつかまえました。こんどはうまくいきました。魔女はうなずくと、さっと、ほうきをけりました。ほうきは勢いよく夜空に飛び出していきました。あとには、ハンドバッグが忘れさられていました。
「わすれものはいけないねえ」
またひとり、魔女がやってきました。
「こんなところにおいといたんじゃ、不用心だよ。あたしがもってってあげましょう」
魔女は、ハンドバッグを自分のほうきの先にひっかけて行こうとしました。けれど、手を止めて、言いました。
「いや、かってにもってったんじゃ、持ち主がとりにきたときにこまるにちがいない。目印をつけておこう」
そして魔女は、小さなハンカチをとりだすと、それを枝につるし、なにやら口の中でぶつぶつととなえました。それから、両手をそっとハンカチの上にかざすと、ハンカチはうっすらと光りはじめました。
「これでよし。見るひとが見れば、わかるだろうよ」
そして、魔女は空高くまいあがりました。
さっきの魔女が飛んでいってから、もう夜空を横切る影はありません。いつのまにか、消えていた街灯もつきました。猫は退屈そうにしげみに消えていきました。
どれくらいたったでしょう。ずっとくもっていた夜空に、星がひとつ、ふたつと見えはじめました。そして、また街灯が音もなく消えました。
空高くから、魔女がひとり、公園のハンカチに気がつきました。
「おや、あんなところにだれかがお知らせをひろげてるよ」
魔女はつぶやくと、公園にふわりとまいおりました。うまくほうきをあやつってニレの木の枝のすぐ近くまでいくと、ポケットからめがねをとりだして鼻の頭にかけ、じろりとハンカチを見ました。
「なるほどね、ハンドバッグのわすれものをあずかっています、ということですか。あわてものがいたもんだね」
そして、帰り道を急ごうとほうきの向きを変えました。けれど、魔女は飛び立ちませんでした。
別の魔女が、空高くからこの魔女を見つけました。そしてやっぱり、空からふわりとまいおりてきました。
「どうしたんだい、こんなところに長くいたら、人間に気づかれちまうよ」
そう声をかけられ、さっきの魔女は、われにかえって返事をしました。
「ああ、うっかりしてたよ。ありがとう。それにしても、見てごらんよ。この桜の花をさあ。あたしの魔法でも、とてもこうはいかないよ」
あとからきた魔女は、いわれるままにふりむきました。ちょうど雲のあいだから顔をのぞかせたお月様の光の中、白くふわりとした桜の花がぼんやりとうかびあがっています。ほんのわずかに枝がゆれるだけで、こぼれるように花びらが、まいちります。それはまるで、夢の中のけしきのようでした。
「いや、きれいなもんだねえ」
「自分が魔女だってことをわすれそうになるよ」
「まったく、たいしたもんだよ」
そしてふたりは、ならんでニレの枝にこしかけました。そうやって、時のたつのをわすれたように、花の美しさによいしれていたのです。
けれど、どんなに花が美しくても、自分が魔女だということをほんとうにわすれることはできません。
「おやおや、長居がすぎたよ。早く行かないと夜があける」
「ほんとうだよ。急がなきゃ」
ふたりは大あわてでほうきにとびのりました。競争のように空にまいあがると、あっというまに見えなくなったのです。けれど、ふたりが飛び立ったあとに、かさが一本のこっていました。どっちの魔女がわすれたのでしょうね。魔女なんて、あわてものばかりです。
そして、朝です。きのうとはうってかわって、よく晴れました。公園には、桜の花びらがしきつめたようにおちています。そのうえに、新しい花びらが、あとからあとからふってきます。
その花びらをふみながら、きのうの小さな男の子がやってきました。おとなの手を引っぱっています。ひょっとしたら、きのうのよるおそくに、公園を通っていったひとなのかもしれません。けれど、けさはネクタイはしめていません。かばんももっていません。そのかわり、長いさおを一本もっています。
男の子は、ニレの木の枝をゆびさしました。おとなのひとは、うなずきました。きっと、男の子のおとうさんなのでしょう。そして、さおをのばすと、枝にひっかかっていたかさを、きようにおとしました。
すとんと地面におちたかさを、男の子はかけよってひろいました。そして、うれしそうにおとうさんの手につかまると、二、三度はねて、元気よく走り出しました。
かさの形が少しだけかわっていることに、おとうさんは気がつきませんでした。男の子は、すこしだけあとになって気がつきました。けれど、なぜだかはあまり考えないことにしました。
だって、たいせつなかさを、おとうさんがとりかえしてくれたんですからね。
公園に、にぎやかな声がひびきました。子どもたちです。ぐるぐる走りまわります。おにごっこでもしているのでしょうか。やがて、ひとりの子どもが輪を抜け出しました。かさをもっています。別の子が追いぬきざまに、そのかさをひったくりました。そのうしろから、小さな男の子が追いかけます。おやおや、泣きそうな顔です。
かさをもっていた子が、ニレの木の下で立ち止まりました。小さな子がようやく追いつきます。
「かえして」
けれど、大きな子はかえしません。もういちど、小さな子が言います。
「かえして」
大きな子は、一歩前に進み、かさをさしだすふりをしました。小さな子は手をのばしました。かさをつかもうとしたそのとき、大きな子は思いっきりかさを真上に投げ上げました。かさはまっすぐに飛んでいき、ニレの木の高い枝にひっかかりました。
「じゃあな」
大きな子たちは、あわてたように走って行ってしまいました。あとにはぽつんと、小さな男の子がひとり、残りました。
男の子は、何も言わず、じっとかさを見上げていました。どうしたって、手は届きそうにありません。いくつにも分かれた細い枝の先です。木登りしたってぜったいに無理でしょう。風がふいて、枝がゆれました。桜の木からは、花びらが吹雪のようにまいおちてきます。けれど、かさがおちてくるようすはありません。
小さな男の子は、しばらくそうやってニレの木の下に立っていました。だんだん顔がゆがんできました。うつむいて、地面をけっとばして、それから急に走り出して、公園から消えていきました。
夜です。公園の桜が街灯に照らされています。白くうかびあがった花は、息をのむ美しさです。ネクタイをゆるめた男の人が、花の下を通りました。おそい帰り道を急いでいるのです。かばんをだいじにかかえています。遠くで最終電車が通りました。猫が一匹、公園のさくをこえました。
すっと、音もなく街灯が消えました。猫は、ふしぎそうに見上げました。桜の花びらが、何枚かおちてきました。雨はまだ、おちてきません。風はすっかり止まっています。
空を、黒い影が横切りました。ひとつ、またひとつ。音もなく、なにかが飛んでいくのです。
みっつめの影は、低いところを飛んできました。公園のふじだなの真上で向きをかえて、谷の方に向かいます。と、急にスピードをおとし、戻ってくると、ニレの木のそばにとまりました。黒い服を着て、黒い帽子をかぶったおばあさんです。ほうきにまたがって、ちょうどこずえの高さぐらいにうかんでいます。魔女にちがいありません。
「これは助かった」
魔女は低く笑いました。
「雨にふられちゃ、かなわないからね」
そして魔女は、手をのばしてニレの枝にかかったかさをとりました。
「だれのか知らないけど、ちょっと借りていくよ」
そうつぶやいて、ほうきをもういちど、谷の方に向けました。たちまち黒い影は見えなくなりました。
魔女が気がつかなかったのは、かさをつかんだときに、ぼうしが木の枝に引っかかったことでした。すっぽりぼうしがぬげてしまったことに気がつかず、魔女は飛んでいってしまったのです。
またひとつ、黒い影が夜空を横切りました。今夜は魔女のあつまりがあるのでしょう。
また魔女がひとり、公園に向かっておりてきました。何か見つけたようです。ニレの木のそばにほうきを止めると、あたりを見回しました。
「おや、だれかがぼうしをわすれてるよ」
魔女は言いました。
「だめだよ、こんなだいじな夜にきちんとしたかっこうをしていないなんてね。そうだ、もってってあげましょう」
魔女は、ぼうしをとろうと手をのばしました。けれど、うまくつかめません。そこでこんどは、ハンドバッグを近くの枝にひっかけて、片手で枝を引きよせ、もう一方の手でぼうしをつかまえました。こんどはうまくいきました。魔女はうなずくと、さっと、ほうきをけりました。ほうきは勢いよく夜空に飛び出していきました。あとには、ハンドバッグが忘れさられていました。
「わすれものはいけないねえ」
またひとり、魔女がやってきました。
「こんなところにおいといたんじゃ、不用心だよ。あたしがもってってあげましょう」
魔女は、ハンドバッグを自分のほうきの先にひっかけて行こうとしました。けれど、手を止めて、言いました。
「いや、かってにもってったんじゃ、持ち主がとりにきたときにこまるにちがいない。目印をつけておこう」
そして魔女は、小さなハンカチをとりだすと、それを枝につるし、なにやら口の中でぶつぶつととなえました。それから、両手をそっとハンカチの上にかざすと、ハンカチはうっすらと光りはじめました。
「これでよし。見るひとが見れば、わかるだろうよ」
そして、魔女は空高くまいあがりました。
さっきの魔女が飛んでいってから、もう夜空を横切る影はありません。いつのまにか、消えていた街灯もつきました。猫は退屈そうにしげみに消えていきました。
どれくらいたったでしょう。ずっとくもっていた夜空に、星がひとつ、ふたつと見えはじめました。そして、また街灯が音もなく消えました。
空高くから、魔女がひとり、公園のハンカチに気がつきました。
「おや、あんなところにだれかがお知らせをひろげてるよ」
魔女はつぶやくと、公園にふわりとまいおりました。うまくほうきをあやつってニレの木の枝のすぐ近くまでいくと、ポケットからめがねをとりだして鼻の頭にかけ、じろりとハンカチを見ました。
「なるほどね、ハンドバッグのわすれものをあずかっています、ということですか。あわてものがいたもんだね」
そして、帰り道を急ごうとほうきの向きを変えました。けれど、魔女は飛び立ちませんでした。
別の魔女が、空高くからこの魔女を見つけました。そしてやっぱり、空からふわりとまいおりてきました。
「どうしたんだい、こんなところに長くいたら、人間に気づかれちまうよ」
そう声をかけられ、さっきの魔女は、われにかえって返事をしました。
「ああ、うっかりしてたよ。ありがとう。それにしても、見てごらんよ。この桜の花をさあ。あたしの魔法でも、とてもこうはいかないよ」
あとからきた魔女は、いわれるままにふりむきました。ちょうど雲のあいだから顔をのぞかせたお月様の光の中、白くふわりとした桜の花がぼんやりとうかびあがっています。ほんのわずかに枝がゆれるだけで、こぼれるように花びらが、まいちります。それはまるで、夢の中のけしきのようでした。
「いや、きれいなもんだねえ」
「自分が魔女だってことをわすれそうになるよ」
「まったく、たいしたもんだよ」
そしてふたりは、ならんでニレの枝にこしかけました。そうやって、時のたつのをわすれたように、花の美しさによいしれていたのです。
けれど、どんなに花が美しくても、自分が魔女だということをほんとうにわすれることはできません。
「おやおや、長居がすぎたよ。早く行かないと夜があける」
「ほんとうだよ。急がなきゃ」
ふたりは大あわてでほうきにとびのりました。競争のように空にまいあがると、あっというまに見えなくなったのです。けれど、ふたりが飛び立ったあとに、かさが一本のこっていました。どっちの魔女がわすれたのでしょうね。魔女なんて、あわてものばかりです。
そして、朝です。きのうとはうってかわって、よく晴れました。公園には、桜の花びらがしきつめたようにおちています。そのうえに、新しい花びらが、あとからあとからふってきます。
その花びらをふみながら、きのうの小さな男の子がやってきました。おとなの手を引っぱっています。ひょっとしたら、きのうのよるおそくに、公園を通っていったひとなのかもしれません。けれど、けさはネクタイはしめていません。かばんももっていません。そのかわり、長いさおを一本もっています。
男の子は、ニレの木の枝をゆびさしました。おとなのひとは、うなずきました。きっと、男の子のおとうさんなのでしょう。そして、さおをのばすと、枝にひっかかっていたかさを、きようにおとしました。
すとんと地面におちたかさを、男の子はかけよってひろいました。そして、うれしそうにおとうさんの手につかまると、二、三度はねて、元気よく走り出しました。
かさの形が少しだけかわっていることに、おとうさんは気がつきませんでした。男の子は、すこしだけあとになって気がつきました。けれど、なぜだかはあまり考えないことにしました。
だって、たいせつなかさを、おとうさんがとりかえしてくれたんですからね。
(初出:April 17, 2009)