悪魔が一匹、ジョージアにやってきました。この悪魔、人の魂を盗むのが仕事です。ここのところあまりいい仕事をしていないので、悪魔のかしらにしかられないかと心配でした。そこで、賭けをして魂を盗むことにしました。
森に入っていくと、一人の木こりが木を切っています。大変な力持ちで、大きな斧を振り回し、太い木をまるでバターでも切るようにかんたんに切り倒しています。悪魔はしめしめと思いました。そして、木こりに声をかけました。
「どうだ、おれとおまえ、どっちがはやく木を切れるか、競争してみないか」
木こりはばかにしたように笑いました。
「おまえさんがどれほど腕の立つ木こりか知らないがね、斧を持たせて俺にかなうやつなんかいないよ。無駄なことはやめときな」
悪魔はほくそえみました。自信がある男ほど、だましやすいのです。
「たしかにおまえさんは凄腕の木こりかもしれないがね。どうだ、ここに金の斧がある。俺に勝ったらこの斧をやるが、どうだ」
木こりはしばらく考えていました。それから、ふん、っと笑って、答えました。
「いいだろう。だが、お前が勝っても、俺にはやるものなんかなにもないよ。ご覧のとおり、貧乏人でね」
「なあに、お前の魂をくれればいいのさ」
木こりはじっと悪魔を見ました。どうやら、目の前にいるのが悪魔だと気がついたようです。けれど、木こりはもういちど、ふん、っと笑いました。
「いいだろう。悪魔だか何だか知らないが、俺が負けるわけはない。さあ、勝負だ。俺はこっちの木を切る。お前はそれだ。太さは同じ。文句はないだろう」
悪魔はすっかり嬉しくなりました。
「よし。お前が勝ったら金の斧、俺が勝ったらお前の魂」
さて、悪魔との勝負をする前に知っておかなければならないことがあります。悪魔なんて、本当は何の力ももっていないのです。けれど、悪魔は幻を見せることができます。鏡に写った姿を本当だと思い込ませることができるのです。ですから、相手が強ければ強いほど、悪魔も強く見えるのです。人間には、悪魔の力を越えることができないように見えます。だってそれは、自分自身の力なんですから。そして、悪魔は疲れを知りません。幻は疲れないのです。けれど人間は疲れてしまいます。だから、いつか悪魔の方が勝つに決まっているのです。
木こりは、ありったけの力を振り絞って斧をふるいました。いつもよりもずっとはやく、木屑が飛びます。「どんなもんだい」と思って悪魔を見ると、なんと、自分と同じくらいに切れています。「これはまずい」と思ってもっと一生懸命に斧を振ります。「こんどこそどうだ」と思って見ると、やっぱり悪魔も同じだけは切っています。「負けるものか」と頑張って木を倒したのですが、まったく同時に悪魔の木も倒れました。
「勝負なしだな」
悪魔は笑いました。
「どうだ、もう一回やってみるか。それとも降参か」
「そっちこそ降参しろ」
木こりはむきになって、もう一本の木を切りはじめました。悪魔も隣の木を切りはじめました。
ところが今度は木こりはさっきよりもずっと疲れています。悪魔の方は、そんなようすはつゆほどもありません。なぜなら悪魔の見せる幻は、最初の勝負のときそのままだからです。
こうして悪魔は木こりに勝ち、木こりは魂を悪魔にとられてしまいました。
「人間なんてバカなやつらよ」
悪魔は笑います。そうなのです。勝負ははじめからわかっています。悪魔と競って、勝てるわけはありません。それなのに悪魔との賭けにのってしまうのは、人間の心が弱いからです。神様は、賭け事をしてはいけないとおっしゃいます。それは、人間の心が弱いことを知っていらっしゃるからです。その神様の教えに背いて悪魔との賭けに挑むとき、もうその人の心は半分は地獄に落ちています。だから、悪魔がその魂を手に入れるのはかんたんなことなのです。
木こりの魂をとらえた悪魔は、笑いながら森を進んでいきました。しばらく行くと、鉄砲打ちに出会いました。鉄砲打ちは、遠くはなれたこずえにとまっていた鳥を、たった一発でしとめました。
「なかなかいい腕だな」
悪魔は声をかけます。
「だが、おれにはかなうまい」
「何を言う。おれほどの鉄砲打ちは、このあたりにはおらん」
「じゃあ、賭けをするか。お前が勝ったら金の鉄砲をやろう。その代わり、負けたら魂をよこせ」
こうして、悪魔は鉄砲打ちの魂も奪いました。
やがて森を抜けると、悪魔は一軒の酒場にたどり着きました。悪魔は嬉しくてしかたありません。なぜなら、酒場には弱い心がたくさんあるからです。いくらでも魂が奪えるぞと、悪魔は舌なめずりをしました。
酒場の奥には小さな舞台があり、そこでひとりのフィドル弾きがフィドルを弾いています。
「いいぞ、ジョニー」
酔っ払いたちがはやし立てます。ジョニーとよばれたフィドル弾きは、浮かれて、陽気な曲をかなでます。フロアでは楽しそうに踊るひとたちもいます。
「なかなかいい腕だな」
悪魔がジョニーに近づきました。。
「だが、おれにはかなうまい」
ジョニーはフィドルを置いて、笑いました。
「何を言うか。おれほどのフィドル弾きは、このあたりにはおらん」
「じゃあ、賭けをするか。お前が勝ったらこの金のフィドルをやろう。その代わり、負けたら魂をよこせ」
あたりはしんと静まり返りました。だれもが悪魔の企みを知ったのです。けれど、ジョニーは勇敢に笑いました。
「いいだろう。だが、後悔するなよ」
悪魔は、にかにか笑うと、フィドルを構えました。もうジョニーの魂はもらったも同然だと思ったのです。罠にかかった小鳥のようなもの。自信がある男ほど、地獄に落ちるのは早いもの。そして、猛烈に弾きはじめました。
悪魔のフィドルは怖ろしいほど上手でした。それはそうでしょう。悪魔が見せているのは、鏡に写ったジョニーなのです。ジョニーがうまければうまいほど、悪魔はもっとうまくなれるのです。誰もが息を飲みました。
ジョニーの表情は凍りつきました。悪魔の腕は確かなものです。勝てるかどうかわかりません。いや、負けるものかとジョニーは思いました。
悪魔の奏でるメロディは、だんだんと壮大になっていきます。その曲を聞いている人は、目の前に地獄の景色が見えるような気がしました。灰色の空の下、たくさんの救われない魂がうごめいています。稲妻がひかり、魔王があわれな魂を踏みつけて歩きます。すすり泣きが心をかき乱します。救いのない後悔と虚しい懺悔を、フィドルの弦が浮き彫りにしていきます。
ジョニーは、この地獄の景色を目の前に見て、はっと気づきました。自分がいま、まさにその地獄に落ちようとしているのだということに気づいたのです。そして、神様に祈りました。どうか、この地獄から救ってくださいと、一心に祈りました。
悪魔が弾き終えたとき、もう、ジョニーは何も考えていませんでした。悪魔に勝つことも負けることも、金のフィドルのことも、すっかり忘れていました。ただ、心の中には神様への思いだけがありました。
ジョニーは静かに弾きはじめました。悪魔は笑いました。さっき自分が弾いた曲に比べて、あまりにも芸がないと思ったのです。けれど、ジョニーはそんな悪魔には目もくれず、奏でつづけます。
人々の心に、爽やかな風が吹きはじめました。地獄をおおっていた灰色の雲が吹き飛ばされていきます。罪人たちのすすり泣きが消えていきます。魔王はとまどいの表情を浮かべました。どこからか気持ちのいい歌声が聞こえてきます。
そして、光が一筋さしました。フィドルの音が、輝く雲をていねいに描いていきます。やがて太陽が顔を出しました。メロディが一気に山場を迎えます。地獄の景色にもまして壮大な、天国の輝きが広がっていきます。魔王は逃げ出しました。罪人たちは喜びの声を上げ、生まれ変わります。すべてが光の中に輝き、そして曲は終わりました。
悪魔は、うなだれました。なぜ自分が負けたのか、わかりませんでした。けれど、勝負は明らかです。だまって金のフィドルを差し出すと、こそこそと逃げはじめました。
「待て、悪魔」
ジョニーは高らかに笑いました。
「お前のおかげで俺は救われた。どうだ、もう一番、今度は一緒に弾かないか」
「俺がお前を救っただと?」
「そうだ。おまえがあまりにうまかったから、俺には地獄がはっきり見えた。だから俺は悔い改めることができた。悔い改めて神様にすがることができたんだ。俺の力では、お前に勝つことなどできなかった。人間の力なんてつまらないもの。それに気づかない俺がバカだったよ。けれど、神様が助けてくれた。それもこれも、お前のおかげで悔い改めることができたからだ」
「いや、それはあんたの力だよ」
ひとりの年寄りが、酒場の隅で立ち上がりました。
「そいつは芯から偽者だ。ジョニー、あんたの腕を真似してるだけさ。あんたがうまいから、こいつが上手に弾けた。もしもあんたが音楽の力で悔い改めることができたんだとしたら、それはあんたがうまいからだよ」
あちこちから拍手が起こりました。ジョニーは笑うと、フィドルを取り上げました。
「さあ、それではお祝いの歌だ」
そして、ジョニーは力一杯、喜びのメロディを奏でました。酒場中に笑いがこだましました。
悪魔は、いつの間にか消えてなくなっていました。
森に入っていくと、一人の木こりが木を切っています。大変な力持ちで、大きな斧を振り回し、太い木をまるでバターでも切るようにかんたんに切り倒しています。悪魔はしめしめと思いました。そして、木こりに声をかけました。
「どうだ、おれとおまえ、どっちがはやく木を切れるか、競争してみないか」
木こりはばかにしたように笑いました。
「おまえさんがどれほど腕の立つ木こりか知らないがね、斧を持たせて俺にかなうやつなんかいないよ。無駄なことはやめときな」
悪魔はほくそえみました。自信がある男ほど、だましやすいのです。
「たしかにおまえさんは凄腕の木こりかもしれないがね。どうだ、ここに金の斧がある。俺に勝ったらこの斧をやるが、どうだ」
木こりはしばらく考えていました。それから、ふん、っと笑って、答えました。
「いいだろう。だが、お前が勝っても、俺にはやるものなんかなにもないよ。ご覧のとおり、貧乏人でね」
「なあに、お前の魂をくれればいいのさ」
木こりはじっと悪魔を見ました。どうやら、目の前にいるのが悪魔だと気がついたようです。けれど、木こりはもういちど、ふん、っと笑いました。
「いいだろう。悪魔だか何だか知らないが、俺が負けるわけはない。さあ、勝負だ。俺はこっちの木を切る。お前はそれだ。太さは同じ。文句はないだろう」
悪魔はすっかり嬉しくなりました。
「よし。お前が勝ったら金の斧、俺が勝ったらお前の魂」
さて、悪魔との勝負をする前に知っておかなければならないことがあります。悪魔なんて、本当は何の力ももっていないのです。けれど、悪魔は幻を見せることができます。鏡に写った姿を本当だと思い込ませることができるのです。ですから、相手が強ければ強いほど、悪魔も強く見えるのです。人間には、悪魔の力を越えることができないように見えます。だってそれは、自分自身の力なんですから。そして、悪魔は疲れを知りません。幻は疲れないのです。けれど人間は疲れてしまいます。だから、いつか悪魔の方が勝つに決まっているのです。
木こりは、ありったけの力を振り絞って斧をふるいました。いつもよりもずっとはやく、木屑が飛びます。「どんなもんだい」と思って悪魔を見ると、なんと、自分と同じくらいに切れています。「これはまずい」と思ってもっと一生懸命に斧を振ります。「こんどこそどうだ」と思って見ると、やっぱり悪魔も同じだけは切っています。「負けるものか」と頑張って木を倒したのですが、まったく同時に悪魔の木も倒れました。
「勝負なしだな」
悪魔は笑いました。
「どうだ、もう一回やってみるか。それとも降参か」
「そっちこそ降参しろ」
木こりはむきになって、もう一本の木を切りはじめました。悪魔も隣の木を切りはじめました。
ところが今度は木こりはさっきよりもずっと疲れています。悪魔の方は、そんなようすはつゆほどもありません。なぜなら悪魔の見せる幻は、最初の勝負のときそのままだからです。
こうして悪魔は木こりに勝ち、木こりは魂を悪魔にとられてしまいました。
「人間なんてバカなやつらよ」
悪魔は笑います。そうなのです。勝負ははじめからわかっています。悪魔と競って、勝てるわけはありません。それなのに悪魔との賭けにのってしまうのは、人間の心が弱いからです。神様は、賭け事をしてはいけないとおっしゃいます。それは、人間の心が弱いことを知っていらっしゃるからです。その神様の教えに背いて悪魔との賭けに挑むとき、もうその人の心は半分は地獄に落ちています。だから、悪魔がその魂を手に入れるのはかんたんなことなのです。
木こりの魂をとらえた悪魔は、笑いながら森を進んでいきました。しばらく行くと、鉄砲打ちに出会いました。鉄砲打ちは、遠くはなれたこずえにとまっていた鳥を、たった一発でしとめました。
「なかなかいい腕だな」
悪魔は声をかけます。
「だが、おれにはかなうまい」
「何を言う。おれほどの鉄砲打ちは、このあたりにはおらん」
「じゃあ、賭けをするか。お前が勝ったら金の鉄砲をやろう。その代わり、負けたら魂をよこせ」
こうして、悪魔は鉄砲打ちの魂も奪いました。
やがて森を抜けると、悪魔は一軒の酒場にたどり着きました。悪魔は嬉しくてしかたありません。なぜなら、酒場には弱い心がたくさんあるからです。いくらでも魂が奪えるぞと、悪魔は舌なめずりをしました。
酒場の奥には小さな舞台があり、そこでひとりのフィドル弾きがフィドルを弾いています。
「いいぞ、ジョニー」
酔っ払いたちがはやし立てます。ジョニーとよばれたフィドル弾きは、浮かれて、陽気な曲をかなでます。フロアでは楽しそうに踊るひとたちもいます。
「なかなかいい腕だな」
悪魔がジョニーに近づきました。。
「だが、おれにはかなうまい」
ジョニーはフィドルを置いて、笑いました。
「何を言うか。おれほどのフィドル弾きは、このあたりにはおらん」
「じゃあ、賭けをするか。お前が勝ったらこの金のフィドルをやろう。その代わり、負けたら魂をよこせ」
あたりはしんと静まり返りました。だれもが悪魔の企みを知ったのです。けれど、ジョニーは勇敢に笑いました。
「いいだろう。だが、後悔するなよ」
悪魔は、にかにか笑うと、フィドルを構えました。もうジョニーの魂はもらったも同然だと思ったのです。罠にかかった小鳥のようなもの。自信がある男ほど、地獄に落ちるのは早いもの。そして、猛烈に弾きはじめました。
悪魔のフィドルは怖ろしいほど上手でした。それはそうでしょう。悪魔が見せているのは、鏡に写ったジョニーなのです。ジョニーがうまければうまいほど、悪魔はもっとうまくなれるのです。誰もが息を飲みました。
ジョニーの表情は凍りつきました。悪魔の腕は確かなものです。勝てるかどうかわかりません。いや、負けるものかとジョニーは思いました。
悪魔の奏でるメロディは、だんだんと壮大になっていきます。その曲を聞いている人は、目の前に地獄の景色が見えるような気がしました。灰色の空の下、たくさんの救われない魂がうごめいています。稲妻がひかり、魔王があわれな魂を踏みつけて歩きます。すすり泣きが心をかき乱します。救いのない後悔と虚しい懺悔を、フィドルの弦が浮き彫りにしていきます。
ジョニーは、この地獄の景色を目の前に見て、はっと気づきました。自分がいま、まさにその地獄に落ちようとしているのだということに気づいたのです。そして、神様に祈りました。どうか、この地獄から救ってくださいと、一心に祈りました。
悪魔が弾き終えたとき、もう、ジョニーは何も考えていませんでした。悪魔に勝つことも負けることも、金のフィドルのことも、すっかり忘れていました。ただ、心の中には神様への思いだけがありました。
ジョニーは静かに弾きはじめました。悪魔は笑いました。さっき自分が弾いた曲に比べて、あまりにも芸がないと思ったのです。けれど、ジョニーはそんな悪魔には目もくれず、奏でつづけます。
人々の心に、爽やかな風が吹きはじめました。地獄をおおっていた灰色の雲が吹き飛ばされていきます。罪人たちのすすり泣きが消えていきます。魔王はとまどいの表情を浮かべました。どこからか気持ちのいい歌声が聞こえてきます。
そして、光が一筋さしました。フィドルの音が、輝く雲をていねいに描いていきます。やがて太陽が顔を出しました。メロディが一気に山場を迎えます。地獄の景色にもまして壮大な、天国の輝きが広がっていきます。魔王は逃げ出しました。罪人たちは喜びの声を上げ、生まれ変わります。すべてが光の中に輝き、そして曲は終わりました。
悪魔は、うなだれました。なぜ自分が負けたのか、わかりませんでした。けれど、勝負は明らかです。だまって金のフィドルを差し出すと、こそこそと逃げはじめました。
「待て、悪魔」
ジョニーは高らかに笑いました。
「お前のおかげで俺は救われた。どうだ、もう一番、今度は一緒に弾かないか」
「俺がお前を救っただと?」
「そうだ。おまえがあまりにうまかったから、俺には地獄がはっきり見えた。だから俺は悔い改めることができた。悔い改めて神様にすがることができたんだ。俺の力では、お前に勝つことなどできなかった。人間の力なんてつまらないもの。それに気づかない俺がバカだったよ。けれど、神様が助けてくれた。それもこれも、お前のおかげで悔い改めることができたからだ」
「いや、それはあんたの力だよ」
ひとりの年寄りが、酒場の隅で立ち上がりました。
「そいつは芯から偽者だ。ジョニー、あんたの腕を真似してるだけさ。あんたがうまいから、こいつが上手に弾けた。もしもあんたが音楽の力で悔い改めることができたんだとしたら、それはあんたがうまいからだよ」
あちこちから拍手が起こりました。ジョニーは笑うと、フィドルを取り上げました。
「さあ、それではお祝いの歌だ」
そして、ジョニーは力一杯、喜びのメロディを奏でました。酒場中に笑いがこだましました。
悪魔は、いつの間にか消えてなくなっていました。
(初出:June 14, 2009)