いまから80年ぐらい前の話です。
シカゴという大きな街の片隅の狭い地下室に、ギター弾きがギターを抱えてうずくまっていました。寒い寒い部屋です。部屋の真ん中にはストーブがあるのですが、もう何日も火が入っていません。石炭を買うお金がないのです。パンを買うお金もないので、ギター弾きはお腹がぺこぺこでした。
こんなに寒くて、お腹が減っていては、何もできません。それでもギター弾きは、ギターを抱えます。ギター弾きにとって、ギターだけは裏切らない仲間でした。そして、どんなに怖いときでも、ギターさえ抱えていればだいじょうぶだという気持ちになれたものです。
メンフィスという田舎町の近くの農場で、ギター弾きは生まれました。小さいころから、綿畑ではたらいてきました。雨が降った日には、おじさんがギターを教えてくれました。やがておじさんが死んで、ギターは自分のものになりました。
そのギターといっしょにシカゴに出てきたとき、ギター弾きはあまりの賑やかさにぼうぜんとしました。見知らぬ街で、とても心細くなりました。けれど、ギターを抱えて歌いはじめたとたん、そんな心細さは消えてしまいました。
やがて、ギター弾きは酒場で歌うようになりました。たくさんのひとが、ギター弾きにお金をくれました。「おい、歌ってくれよ」「おまえの歌を聞いてると元気が出るぜ」「朝まで踊り明かしたいんだ。よろしく頼むよ」。男たちはそんなふうに言って、ポケットからひとつかみのお金を出してギター弾きに握らせました。ギター弾きは、力の限り、ギターを弾き、歌を歌い続けました。
そんなふうにして、このアパートを借りた最初の冬は、ストーブは赤々と燃えていました。ギター弾きのポケットには、たっぷりとお金があったのです。みんなが自分を好いてくれて、そして自分はみんなが好きで、だからこんなに気持ちよく暮らせる。ギター弾きは幸せでした。
ところが、去年の秋頃から、急に誰もお金をくれなくなったのです。ギター弾きの歌に力がなくなったのでしょうか。いいえ、ギター弾きは、これまで以上にいっしょうけんめい歌っています。では、みんながギター弾きのことをもう好きではなくなったのでしょうか。いいえ、だれもが以前よりもっとギター弾きのまわりに集まります。「おまえさんの歌でなぐさめられたよ」「そうだよ、みんな苦しいんだよなあ」。そんなふうにギター弾きを励ましてくれます。ただ、だれもお金をくれません。
なぜでしょう。かんたんなことです。みんなのポケットにお金がなくなったからです。昔と同じように、みんなはポケットに手を突っ込んで、ひとつかみのお金をギター弾きに渡そうとします。けれど、ポケットの中で、手は空を切ります。お金がないのです。
みんなのポケットにお金がなくなったから、ギター弾きのポケットにお金がなくなりました。じゃあなぜ、みんなのポケットにお金がなくなったのでしょう。それは、ギター弾きにはわかりませんでした。
だから、ギター弾きは、寒さをこらえて、自分の部屋で火の気のないストーブを見つめているしかないのです。ほんとうに、がまんできないほど寒い。ギター弾きの頭に、ひとつの考えが浮かびます。そうだ、このギター。このギターはよく燃えるだろうな。このギターを燃やしてしまったら、この寒さが少しはしのげるかもしれない。
けれど、ギター弾きはすぐに考え直します。なんて馬鹿げた考えだ。燃やしてしまうぐらいなら、いっそ売ってしまえばいいんだ。売ってしまえば、いくらかのお金にはなるだろう。そのお金で石炭を買えばいい。パンを買えばいい。
けれど、それはもっと馬鹿げた考えのようにも思えました。そうやってわずかの石炭やパンを買っても、一週間もつでしょうか、二週間もつでしょうか。それが過ぎれば、もう何も希望はありません。ただひとりの味方であるギターがなくなってしまえば、ギター弾きはもう生きていくことはできません。どうやってお金を稼げばいいのでしょう。ギター弾きは、ギターを弾いて歌を歌うことしか知らないのです。
いえ、もうひとつの生き方を知っていたはずです。生まれたときから、綿畑ではたらいて、まずしいながらもどうにか生きてきました。ふるさとに帰れば、きっとなんとかなるはずです。すくなくとも、こんな寒いシカゴで凍え死んでしまうよりはましではないでしょうか。
そう、ギターを売ってしまって、そのお金で切符を買うのです。メンフィスに帰れば、きっといまよりはましな毎日が待っているはずです。もうこうなっては、それ以外に方法はないのではないでしょうか。
ギター弾きは、のろのろと立ち上がりました。二年間住んだ狭い部屋をひとわたり眺めました。何一つ、余分なものは残っていません。着るだけのものを着てしまえば、はじめてここに来たときと同じように、がらんとした部屋です。ギター弾きは、ただひとつ残ったつくりつけのストーブにさよならを言いました。そして、ギターを手に、ふるさとへの一歩を踏み出しました。
ギターは思ったよりも高く売れました。ギター弾きは駅に向かいました。メンフィス行きの汽車が発車するまで、もう少し時間があります。ギター弾きは切符を買おうと、歩き始めました。
そのときです。気がつくと、目の前に女の人がうずくまっています。
「おい、どうしたんだ?」
ギター弾きが聞いても、女の人はうんうんうなりつづけるばかりです。よく見ると、女の人は大きなお腹を抱えています。
「おい、子どもか? 赤ん坊が生まれるのか? おい、医者に行かなきゃいけないじゃないか。こんな寒いところで子どもが生まれたら、あっという間に凍え死んでしまうぞ。おい」
けれど、女の人は動きません。苦しい息の下から、お金という言葉が漏れ聞こえました。
「なに? 金がないのか。金がないから医者にいけないのか? だけど、だからってこんなところで子どもを生むわけには行かない。あんたも子どもも死んでしまうぞ」
ギター弾きはあたりを見回しました。だれもが忙しく通りすぎていくばかりで、女の人やギター弾きにかまう人はいません。向こうに、タクシーが客待ちをしているのが見えました。
「おい、動けるか。とにかく医者に行くんだ。おい、ちょっと、気をつけて。おれにつかまって、な」
ギター弾きは、タクシーの扉を力一杯叩きました。運転手が出てきてドアを開けました。
「おい、病院まで、この人を乗せてってくれ。な。どこでもいい。とにかく、いちばん近い病院だ。なに? ああ、もちろん金ならある。いいか、ここに、これだけあるからな。だから、おまえさんのタクシー代はこっから差し引いて、それで、残りを病院の方に払ってやってな。世話をかけるけど、頼んだよ! おれは汽車の時間があるんだから」
タクシーは走り去りました。さて、急がないと汽車に乗り遅れます。ここで、ギター弾きは気がつきました。ポケットにはお金はありません。切符を買うはずのお金を、全部、渡してしまったのです。もう自分は、ふるさとに帰ることはできません。といって、この街に残ることもできません。だって、たったひとつ頼りにするギターは、もう自分のものではないのですから。
ギター弾きは、駅の外に出ました。灰色の雲が垂れ込めた冬の空の向こうの方に、小さな雲の切れ目があります。そこから柔らかい光が、まっすぐに射しこんでいます。メンフィスは、あの向こうの方かもしれません。
ギター弾きは、ゆっくりと歩き始めました。ふるさとに帰り着くまで、歩いていけるかどうかわかりません。けれど、こんなに気持ちのいい日は久しぶりです。きっと、帰り着けるはずだと、ギター弾きは理由もなく思いました。
そして、ギター弾きは歩き続けました。どこまでも、どこまでも。心の中では、売ってしまったはずのギターが美しい音楽を奏でます。歩こうよ、歩こうよと。微笑みながら、ギター弾きは、シカゴの街から消えていったということです。
シカゴという大きな街の片隅の狭い地下室に、ギター弾きがギターを抱えてうずくまっていました。寒い寒い部屋です。部屋の真ん中にはストーブがあるのですが、もう何日も火が入っていません。石炭を買うお金がないのです。パンを買うお金もないので、ギター弾きはお腹がぺこぺこでした。
こんなに寒くて、お腹が減っていては、何もできません。それでもギター弾きは、ギターを抱えます。ギター弾きにとって、ギターだけは裏切らない仲間でした。そして、どんなに怖いときでも、ギターさえ抱えていればだいじょうぶだという気持ちになれたものです。
メンフィスという田舎町の近くの農場で、ギター弾きは生まれました。小さいころから、綿畑ではたらいてきました。雨が降った日には、おじさんがギターを教えてくれました。やがておじさんが死んで、ギターは自分のものになりました。
そのギターといっしょにシカゴに出てきたとき、ギター弾きはあまりの賑やかさにぼうぜんとしました。見知らぬ街で、とても心細くなりました。けれど、ギターを抱えて歌いはじめたとたん、そんな心細さは消えてしまいました。
やがて、ギター弾きは酒場で歌うようになりました。たくさんのひとが、ギター弾きにお金をくれました。「おい、歌ってくれよ」「おまえの歌を聞いてると元気が出るぜ」「朝まで踊り明かしたいんだ。よろしく頼むよ」。男たちはそんなふうに言って、ポケットからひとつかみのお金を出してギター弾きに握らせました。ギター弾きは、力の限り、ギターを弾き、歌を歌い続けました。
そんなふうにして、このアパートを借りた最初の冬は、ストーブは赤々と燃えていました。ギター弾きのポケットには、たっぷりとお金があったのです。みんなが自分を好いてくれて、そして自分はみんなが好きで、だからこんなに気持ちよく暮らせる。ギター弾きは幸せでした。
ところが、去年の秋頃から、急に誰もお金をくれなくなったのです。ギター弾きの歌に力がなくなったのでしょうか。いいえ、ギター弾きは、これまで以上にいっしょうけんめい歌っています。では、みんながギター弾きのことをもう好きではなくなったのでしょうか。いいえ、だれもが以前よりもっとギター弾きのまわりに集まります。「おまえさんの歌でなぐさめられたよ」「そうだよ、みんな苦しいんだよなあ」。そんなふうにギター弾きを励ましてくれます。ただ、だれもお金をくれません。
なぜでしょう。かんたんなことです。みんなのポケットにお金がなくなったからです。昔と同じように、みんなはポケットに手を突っ込んで、ひとつかみのお金をギター弾きに渡そうとします。けれど、ポケットの中で、手は空を切ります。お金がないのです。
みんなのポケットにお金がなくなったから、ギター弾きのポケットにお金がなくなりました。じゃあなぜ、みんなのポケットにお金がなくなったのでしょう。それは、ギター弾きにはわかりませんでした。
だから、ギター弾きは、寒さをこらえて、自分の部屋で火の気のないストーブを見つめているしかないのです。ほんとうに、がまんできないほど寒い。ギター弾きの頭に、ひとつの考えが浮かびます。そうだ、このギター。このギターはよく燃えるだろうな。このギターを燃やしてしまったら、この寒さが少しはしのげるかもしれない。
けれど、ギター弾きはすぐに考え直します。なんて馬鹿げた考えだ。燃やしてしまうぐらいなら、いっそ売ってしまえばいいんだ。売ってしまえば、いくらかのお金にはなるだろう。そのお金で石炭を買えばいい。パンを買えばいい。
けれど、それはもっと馬鹿げた考えのようにも思えました。そうやってわずかの石炭やパンを買っても、一週間もつでしょうか、二週間もつでしょうか。それが過ぎれば、もう何も希望はありません。ただひとりの味方であるギターがなくなってしまえば、ギター弾きはもう生きていくことはできません。どうやってお金を稼げばいいのでしょう。ギター弾きは、ギターを弾いて歌を歌うことしか知らないのです。
いえ、もうひとつの生き方を知っていたはずです。生まれたときから、綿畑ではたらいて、まずしいながらもどうにか生きてきました。ふるさとに帰れば、きっとなんとかなるはずです。すくなくとも、こんな寒いシカゴで凍え死んでしまうよりはましではないでしょうか。
そう、ギターを売ってしまって、そのお金で切符を買うのです。メンフィスに帰れば、きっといまよりはましな毎日が待っているはずです。もうこうなっては、それ以外に方法はないのではないでしょうか。
ギター弾きは、のろのろと立ち上がりました。二年間住んだ狭い部屋をひとわたり眺めました。何一つ、余分なものは残っていません。着るだけのものを着てしまえば、はじめてここに来たときと同じように、がらんとした部屋です。ギター弾きは、ただひとつ残ったつくりつけのストーブにさよならを言いました。そして、ギターを手に、ふるさとへの一歩を踏み出しました。
ギターは思ったよりも高く売れました。ギター弾きは駅に向かいました。メンフィス行きの汽車が発車するまで、もう少し時間があります。ギター弾きは切符を買おうと、歩き始めました。
そのときです。気がつくと、目の前に女の人がうずくまっています。
「おい、どうしたんだ?」
ギター弾きが聞いても、女の人はうんうんうなりつづけるばかりです。よく見ると、女の人は大きなお腹を抱えています。
「おい、子どもか? 赤ん坊が生まれるのか? おい、医者に行かなきゃいけないじゃないか。こんな寒いところで子どもが生まれたら、あっという間に凍え死んでしまうぞ。おい」
けれど、女の人は動きません。苦しい息の下から、お金という言葉が漏れ聞こえました。
「なに? 金がないのか。金がないから医者にいけないのか? だけど、だからってこんなところで子どもを生むわけには行かない。あんたも子どもも死んでしまうぞ」
ギター弾きはあたりを見回しました。だれもが忙しく通りすぎていくばかりで、女の人やギター弾きにかまう人はいません。向こうに、タクシーが客待ちをしているのが見えました。
「おい、動けるか。とにかく医者に行くんだ。おい、ちょっと、気をつけて。おれにつかまって、な」
ギター弾きは、タクシーの扉を力一杯叩きました。運転手が出てきてドアを開けました。
「おい、病院まで、この人を乗せてってくれ。な。どこでもいい。とにかく、いちばん近い病院だ。なに? ああ、もちろん金ならある。いいか、ここに、これだけあるからな。だから、おまえさんのタクシー代はこっから差し引いて、それで、残りを病院の方に払ってやってな。世話をかけるけど、頼んだよ! おれは汽車の時間があるんだから」
タクシーは走り去りました。さて、急がないと汽車に乗り遅れます。ここで、ギター弾きは気がつきました。ポケットにはお金はありません。切符を買うはずのお金を、全部、渡してしまったのです。もう自分は、ふるさとに帰ることはできません。といって、この街に残ることもできません。だって、たったひとつ頼りにするギターは、もう自分のものではないのですから。
ギター弾きは、駅の外に出ました。灰色の雲が垂れ込めた冬の空の向こうの方に、小さな雲の切れ目があります。そこから柔らかい光が、まっすぐに射しこんでいます。メンフィスは、あの向こうの方かもしれません。
ギター弾きは、ゆっくりと歩き始めました。ふるさとに帰り着くまで、歩いていけるかどうかわかりません。けれど、こんなに気持ちのいい日は久しぶりです。きっと、帰り着けるはずだと、ギター弾きは理由もなく思いました。
そして、ギター弾きは歩き続けました。どこまでも、どこまでも。心の中では、売ってしまったはずのギターが美しい音楽を奏でます。歩こうよ、歩こうよと。微笑みながら、ギター弾きは、シカゴの街から消えていったということです。
(初出:February 27, 2009)