これは、ぼくの幼なじみのマサヒロくんが話してくれたおはなしです。
「こぼち」という仕事を知っていますか。家をたてるのではなく、こわす仕事です。こわすのがなんで仕事になるのかって思う人は、よくかんがえてください。家をたてるためには、まず古い家をこわさなければいけません。こわれている家だって、きれいにかたづけなければなりません。古くなってつかえなくなったたてものをかたづけるのが、「こぼち」の仕事です。ぼくの仕事は、「こぼち」です。
こわすだけならかんたんな仕事だと、そんなふうにおもうかもしれません。けれど、じょうずにこわすのは、なかなかむずかしいんですよ。きちんと順番をかんがえてこわしていかないと、かべや柱がうまくはずれずにこまったり、まわりの家にめいわくがかかったり、自分があぶなかったり、いろいろとやっかいなことがおこります。頭をつかうんですよ。どこをどうはずせばどんなふうにこわれるのか、たてもののしくみや力のはたらきかたをよく知っていないとしくじります。ぼくはこの「こぼち」がすきですね。
家をこわしていると、いろんなものに出会います。いつだったかは床下から山のような酒びんが出てきたことがありました。その家に住んでいた人はしあわせではなかったんでしょうね。屋根裏から鳥の巣が出てきたこともあります。みすぼらしい壁紙のうしろに美しい土壁が出てきたときにはおどろいたものです。そうかとおもうと、見かけはりっぱなのにはりぼてのようにたよりないつくりの家もあります。家も人も、見かけによらないものですよ。
たいていは、知らない町の知らない家をこわすのです。けれど、たまには知っている家をこわすこともあります。その日もそうでした。現場につくまで気がつかなかったのですけれど、そこはぼくが生まれた町の保育園でした。入り口にかかっている保育園の名まえを見て、気がつきました。
たしかに、ぼくがかよった保育園です。けれど、そこはまるで知らない場所でした。たてものはもっと大きかったはずだし、玄関ももっと広かったはずです。園庭だってどこまで走っても終わらないぐらい大きかったはずなのに、こうやってみると、ちょっと広い家の庭ぐらいしかありません。
その広くない園庭に、小さな丸太小屋がひとつたっていました。これをこわすのが仕事でした。たぶん、園庭を広くしたいんでしょう。たしかに丸太小屋はじゃまっけでした。これがなかったら、もっと子どもたちは走りまわれるんでしょう。ぼくは、ショベルカーを気をつけながら園庭に乗り入れました。アームの先にはシャベルではなく、大きなカニのハサミのようなフォークがついています。これで柱やはりをつかんでくずしていくんです。
かんたんな仕事だなと、丸太小屋を見ておもいました。柱もかべもみんな丸太ですから、丸太を一本ずつつかんではずしていけばいいんですね。ずいぶん古くてぼろぼろなので、よけいにかんたんです。ひょっとしたらもう古くなってあぶないからこわすことになったのかもしれません。ほうっておいてもそのままくずれてしまいそうです。
まず、やねからかかります。こんな小さなたてものは、やねのいちばん上のむなぎというところをはずしてしまえばあっというまです。そこをはずすと、屋根が半分とれました。屋根裏もない小屋だということがよくわかります。かべがくずれて、部屋の中が見えました。そのときになって、ようやくぼくはおもい出したんです。
ぼくが子どものころ、この小屋には魔女が住んでいました。ほんとうは住んでいたわけではないのでしょう。でも、その小屋は魔女のものでした。毎週火曜日になると、小屋からは鐘の音が聞こえました。その鐘にひきよせられて小屋にはいると、真っ黒な服を着た魔女がまちかまえていました。そして、魔法をつかったり、ふしぎなおはなしをしてくれるのでした。
魔女は、むかしこの保育園の園長だったといううわさもありました。外国に行って魔法を身につけたのだというひともいました。丸太小屋にはひみつの地下室があって、そこで魔法のくすりをつくっているのだと、こっそりと話してくれた子どももいました。小さく変身して、丸太小屋のえんとつから飛んで行くのだというのも、ひろく信じられていました。
空っぽになった本だな、絵がかかっていたはずのかべをひきはがしながら、ぼくはおもいました。あれはいったいなんだったんだろう。もちろん、魔女がほんとうにいるはずはありません。魔法はただの手品だったんでしょう。おはなしは、子どもたちをたのしませようとしてくれたつくり話です。だから、空を飛んでいくとか小人になるなんてことも、ほんとうはあったはずはありません。
地下室。そう、ひみつの地下室なら、あったかもしれません。けれど、かべをすっかりくずし、ゆかもひきはがしてしまって、そのあとには地下室らしいものはなにもありませんでした。すべてがまぼろしだったのです。子どもだましの魔法は、すっかり消えてしまっていました。ショベルカーのレバーを動かしながら、ぼくはおもいました。「そんなもんだよな」と。
じょうずにこわすと、家はずいぶんと小さくなるものです。柱やはりを一本ずつ、かべやゆか板も一枚ずつ重ねれば、たいしたかさではありません。いいかげんにこわしたのでは、こうはいきません。うでのみせどころですよ。丸太小屋ひとつぐらいだったら、トラック一台につめるぐらいにきれいにこわしてみせます。何回もはこばせるのは、トラックの運転手にもわるいし、自分の仕事もなめらかにすすまないものです。
だから、トラックが行ってしまったあと、ほんとうになにものこっていませんでした。ただ、トラックが向きをかえたときに落としてしまったらしい丸太が一本だけ、地面に落ちていました。ぼくはその丸太をひろいあげました。現場においていくわけにはいきませんからね。ショベルカーを運ぶためのトラックの荷台にほうりあげようとして、そこにうっすらと文字が見えるのに気がつきました。古くぎかなにかでひっかいて、子どもがかいたんでしょう。もしもそのきたないひらがながぼくの名まえをあらわしていなかったら、なんともおもわずにほうりなげていたとおもいます。けれど、ぼくは手をとめました。
「だいち、まさひろ、しんや」
三人の名まえははっきり読めました。そのほかにもなにかがかいてあるようです。もう読めません。けれど、ぼくははっきりとおもいだしました。
ぼくら三人は、たしかにここでいっしょに遊んでいたのです。だれかが、小屋の土台の丸太に名まえを書こうといいました。ぼくはこわいとおもいました。魔法の小屋ですよ。あぶないことがおこったらどうしたらいいんでしょう。けれど、だいちがいいました。魔法にはいい魔法とわるい魔法があるんだよと。ここにはわるい魔法はないんだから。
そんなことをおもいだしたら、ぼくは急にだいちに会いたくなりました。しんやにも、ほかのみんなにも会いたくなりました。
だからぼくは、その夜、だいちの家に電話してみました。だいちはもうそこに住んでいませんでしたけれど、お母さんが電話に出て、連絡するようにいうといってくれました。
それからしばらくして、ぼくらは会うことができました。だいちもしんやも、たけおもさだみも、なつかしいなかまがなん人もあつまりました。ぼくは、丸太小屋のことを話しました。みんな、あの小屋のこと、魔女のことをよくおぼえていました。話はいつまでもつづきました。
「やっぱり魔法はあったんだな」
ぼくは、そんなふうにおもったのでした。
「こぼち」という仕事を知っていますか。家をたてるのではなく、こわす仕事です。こわすのがなんで仕事になるのかって思う人は、よくかんがえてください。家をたてるためには、まず古い家をこわさなければいけません。こわれている家だって、きれいにかたづけなければなりません。古くなってつかえなくなったたてものをかたづけるのが、「こぼち」の仕事です。ぼくの仕事は、「こぼち」です。
こわすだけならかんたんな仕事だと、そんなふうにおもうかもしれません。けれど、じょうずにこわすのは、なかなかむずかしいんですよ。きちんと順番をかんがえてこわしていかないと、かべや柱がうまくはずれずにこまったり、まわりの家にめいわくがかかったり、自分があぶなかったり、いろいろとやっかいなことがおこります。頭をつかうんですよ。どこをどうはずせばどんなふうにこわれるのか、たてもののしくみや力のはたらきかたをよく知っていないとしくじります。ぼくはこの「こぼち」がすきですね。
家をこわしていると、いろんなものに出会います。いつだったかは床下から山のような酒びんが出てきたことがありました。その家に住んでいた人はしあわせではなかったんでしょうね。屋根裏から鳥の巣が出てきたこともあります。みすぼらしい壁紙のうしろに美しい土壁が出てきたときにはおどろいたものです。そうかとおもうと、見かけはりっぱなのにはりぼてのようにたよりないつくりの家もあります。家も人も、見かけによらないものですよ。
たいていは、知らない町の知らない家をこわすのです。けれど、たまには知っている家をこわすこともあります。その日もそうでした。現場につくまで気がつかなかったのですけれど、そこはぼくが生まれた町の保育園でした。入り口にかかっている保育園の名まえを見て、気がつきました。
たしかに、ぼくがかよった保育園です。けれど、そこはまるで知らない場所でした。たてものはもっと大きかったはずだし、玄関ももっと広かったはずです。園庭だってどこまで走っても終わらないぐらい大きかったはずなのに、こうやってみると、ちょっと広い家の庭ぐらいしかありません。
その広くない園庭に、小さな丸太小屋がひとつたっていました。これをこわすのが仕事でした。たぶん、園庭を広くしたいんでしょう。たしかに丸太小屋はじゃまっけでした。これがなかったら、もっと子どもたちは走りまわれるんでしょう。ぼくは、ショベルカーを気をつけながら園庭に乗り入れました。アームの先にはシャベルではなく、大きなカニのハサミのようなフォークがついています。これで柱やはりをつかんでくずしていくんです。
かんたんな仕事だなと、丸太小屋を見ておもいました。柱もかべもみんな丸太ですから、丸太を一本ずつつかんではずしていけばいいんですね。ずいぶん古くてぼろぼろなので、よけいにかんたんです。ひょっとしたらもう古くなってあぶないからこわすことになったのかもしれません。ほうっておいてもそのままくずれてしまいそうです。
まず、やねからかかります。こんな小さなたてものは、やねのいちばん上のむなぎというところをはずしてしまえばあっというまです。そこをはずすと、屋根が半分とれました。屋根裏もない小屋だということがよくわかります。かべがくずれて、部屋の中が見えました。そのときになって、ようやくぼくはおもい出したんです。
ぼくが子どものころ、この小屋には魔女が住んでいました。ほんとうは住んでいたわけではないのでしょう。でも、その小屋は魔女のものでした。毎週火曜日になると、小屋からは鐘の音が聞こえました。その鐘にひきよせられて小屋にはいると、真っ黒な服を着た魔女がまちかまえていました。そして、魔法をつかったり、ふしぎなおはなしをしてくれるのでした。
魔女は、むかしこの保育園の園長だったといううわさもありました。外国に行って魔法を身につけたのだというひともいました。丸太小屋にはひみつの地下室があって、そこで魔法のくすりをつくっているのだと、こっそりと話してくれた子どももいました。小さく変身して、丸太小屋のえんとつから飛んで行くのだというのも、ひろく信じられていました。
空っぽになった本だな、絵がかかっていたはずのかべをひきはがしながら、ぼくはおもいました。あれはいったいなんだったんだろう。もちろん、魔女がほんとうにいるはずはありません。魔法はただの手品だったんでしょう。おはなしは、子どもたちをたのしませようとしてくれたつくり話です。だから、空を飛んでいくとか小人になるなんてことも、ほんとうはあったはずはありません。
地下室。そう、ひみつの地下室なら、あったかもしれません。けれど、かべをすっかりくずし、ゆかもひきはがしてしまって、そのあとには地下室らしいものはなにもありませんでした。すべてがまぼろしだったのです。子どもだましの魔法は、すっかり消えてしまっていました。ショベルカーのレバーを動かしながら、ぼくはおもいました。「そんなもんだよな」と。
じょうずにこわすと、家はずいぶんと小さくなるものです。柱やはりを一本ずつ、かべやゆか板も一枚ずつ重ねれば、たいしたかさではありません。いいかげんにこわしたのでは、こうはいきません。うでのみせどころですよ。丸太小屋ひとつぐらいだったら、トラック一台につめるぐらいにきれいにこわしてみせます。何回もはこばせるのは、トラックの運転手にもわるいし、自分の仕事もなめらかにすすまないものです。
だから、トラックが行ってしまったあと、ほんとうになにものこっていませんでした。ただ、トラックが向きをかえたときに落としてしまったらしい丸太が一本だけ、地面に落ちていました。ぼくはその丸太をひろいあげました。現場においていくわけにはいきませんからね。ショベルカーを運ぶためのトラックの荷台にほうりあげようとして、そこにうっすらと文字が見えるのに気がつきました。古くぎかなにかでひっかいて、子どもがかいたんでしょう。もしもそのきたないひらがながぼくの名まえをあらわしていなかったら、なんともおもわずにほうりなげていたとおもいます。けれど、ぼくは手をとめました。
「だいち、まさひろ、しんや」
三人の名まえははっきり読めました。そのほかにもなにかがかいてあるようです。もう読めません。けれど、ぼくははっきりとおもいだしました。
ぼくら三人は、たしかにここでいっしょに遊んでいたのです。だれかが、小屋の土台の丸太に名まえを書こうといいました。ぼくはこわいとおもいました。魔法の小屋ですよ。あぶないことがおこったらどうしたらいいんでしょう。けれど、だいちがいいました。魔法にはいい魔法とわるい魔法があるんだよと。ここにはわるい魔法はないんだから。
そんなことをおもいだしたら、ぼくは急にだいちに会いたくなりました。しんやにも、ほかのみんなにも会いたくなりました。
だからぼくは、その夜、だいちの家に電話してみました。だいちはもうそこに住んでいませんでしたけれど、お母さんが電話に出て、連絡するようにいうといってくれました。
それからしばらくして、ぼくらは会うことができました。だいちもしんやも、たけおもさだみも、なつかしいなかまがなん人もあつまりました。ぼくは、丸太小屋のことを話しました。みんな、あの小屋のこと、魔女のことをよくおぼえていました。話はいつまでもつづきました。
「やっぱり魔法はあったんだな」
ぼくは、そんなふうにおもったのでした。