森のおくに、なあが住んでいました。
一本の細い道が、森の中をぬけていました。うす暗く、ひっそりとした道を旅人が歩いていくと、肩をとんとんとたたくものがあります。何だろうと思って旅人 が立ち止まると、「なあ」と、しめった手ぬぐいでなで回すような声がします。振り向くと、なあが立っています。旅人は、びっくりして、ころげるように走り 出します。そのあわてぶりを見て、なあはいつもげらげらとわらうのでした。
「なあが出るから森の道は通らん方がいい」
そんなうわさが立って、だんだんと旅人は少なくなりました。なあはつまらないなあと思いましたけれど、それでもときには「ばけものなんぞいるものか」といばったさむらいがやってくることもあります。
そんなとき、なあは、森のいちばんおくの、いちばんさびしいところで、そうっとさむらいのうしろに近づきます。そしてとびきりの声で、「なあ」というので した。どんな強がりをいっていたさむらいでも、せなかにびちゃっとはりつくような声に、「わあっ」とさけんで、にげ出します。強がりをいっていたさむらい ほど、あわてぶりはひどいものです。なあは、いつもよりもいっそう、からだをねじるようにしてわらいころげるのでした。
けれど、そんなことがあると、ますます旅人は森を通らなくなります。なあは、すっかりたいくつしてしまいました。
けれどある日、なあは森の入り口をはいってくるひとりのお坊さんを見つけました。うすよごれた灰色の着物を着て、あみがさをかぶり、手にはしゃくじょうと いうつえをもっています。お坊さんが歩くと、しゃくじょうの先につけたすずが「かるん、かるん」と、すんだ音をひびかせました。
なあは、すっかりうれしくなりました。さっそくお坊さんのうしろからそうっと近づくと、なめあげるような声で「なあ」といいいました。
ところが、お坊さんはなにごともなかったように歩いていきます。なあは、ふり上げた手が空をきったように、あわてました。それからだんだん腹が立ってきました。
だっていままで、なあの声ににげ出さなかったひとはいないのです。なあは、お坊さんのあとをつけはじめました。森のいちばんおく深くさびしいところまで追いかけていくと、こんどこそ、思いっきり気味の悪い声をつくって、「なあ」と、お坊さんの肩をたたきました。
けれど、お坊さんはあいかわらず、すたすたすたすたと歩き続けます。なあは、まっ黒なゆげをたてるほどにおこりました。そして、足もとの石ころや木切れをけとばしながらお坊さんを追いこすと、ま正面からお坊さんの前に立ちはだかって、
「なあ!」
と、大きな声を上げました。
お坊さんは、ぴたりと立ち止まりました。そしてまっすぐに、なあの目を見ると、「それで?」といいました。
なあは、びっくりしました。それからますます腹が立ちました。そこで、のどがはりさけるほどの声を上げて、
「なあ!」
と、さけびました。
お坊さんは、なあの頭のてっぺんからつま先まで、じっと見つめました。それから静かな声で、「それで、なんだね」といいました。
なあは、とつぜんこわくなりました。おなかの底がきゅうっとしぼられるような気持ちになりました。
「それで、おまえは何がいいたいのだね」
お坊さんは、あいかわらず穏やかな声でいいました。なあは、もうどうしていいかわからず、それでも、やっとの思いでたったひとつだけいえる言葉をはき出しました。
「なあ、……あそぼうよ」
お坊さんは大きくうなずくと、両手を合わせてふかぶかと、なあにおじぎをしました。それからゆっくりと、なあのわきをすりぬけました。そしてそのまま、すたすたと歩いていきました。
なあは、何もかも思い出しました。小さな子どもだったころのこと、「なあ、あそぼうよ」と話しかけても、だれも遊んでくれなかったこと、「なあ、なあ」と いっても、だれも返事をしてくれなかったこと、そして森にはいって、ひとりぼっちでくらすようになったこと。わすれていたことがどんどんあとから出てきま した。
なあの目から、なみだがこぼれはじめました。なあは泣いて、泣いて、どんどん大つぶのなみだをこぼしました。なあのからだになみだがかかると、なあのからだはとけはじめました。どんどんとけて、そしてさいごに、小さな男の子が残りました。
男の子は、お坊さんのあとを追って、かけ出しました。けれど、いくら走っても、お坊さんのすがたは見えません。どんどん走って、やがて気がつくと、男の子は森のはずれにある小さなむらのなかまでやってきていました。
泣いている男の子を、しわだらけの手が抱き上げました。こうして男の子は、子どものないむらの年寄りにひきとられて育てられることになりました。
やがて男の子は、思慮深いりっぱな若者に育ち、出家して徳の高いお坊さんになったということです。
一本の細い道が、森の中をぬけていました。うす暗く、ひっそりとした道を旅人が歩いていくと、肩をとんとんとたたくものがあります。何だろうと思って旅人 が立ち止まると、「なあ」と、しめった手ぬぐいでなで回すような声がします。振り向くと、なあが立っています。旅人は、びっくりして、ころげるように走り 出します。そのあわてぶりを見て、なあはいつもげらげらとわらうのでした。
「なあが出るから森の道は通らん方がいい」
そんなうわさが立って、だんだんと旅人は少なくなりました。なあはつまらないなあと思いましたけれど、それでもときには「ばけものなんぞいるものか」といばったさむらいがやってくることもあります。
そんなとき、なあは、森のいちばんおくの、いちばんさびしいところで、そうっとさむらいのうしろに近づきます。そしてとびきりの声で、「なあ」というので した。どんな強がりをいっていたさむらいでも、せなかにびちゃっとはりつくような声に、「わあっ」とさけんで、にげ出します。強がりをいっていたさむらい ほど、あわてぶりはひどいものです。なあは、いつもよりもいっそう、からだをねじるようにしてわらいころげるのでした。
けれど、そんなことがあると、ますます旅人は森を通らなくなります。なあは、すっかりたいくつしてしまいました。
けれどある日、なあは森の入り口をはいってくるひとりのお坊さんを見つけました。うすよごれた灰色の着物を着て、あみがさをかぶり、手にはしゃくじょうと いうつえをもっています。お坊さんが歩くと、しゃくじょうの先につけたすずが「かるん、かるん」と、すんだ音をひびかせました。
なあは、すっかりうれしくなりました。さっそくお坊さんのうしろからそうっと近づくと、なめあげるような声で「なあ」といいいました。
ところが、お坊さんはなにごともなかったように歩いていきます。なあは、ふり上げた手が空をきったように、あわてました。それからだんだん腹が立ってきました。
だっていままで、なあの声ににげ出さなかったひとはいないのです。なあは、お坊さんのあとをつけはじめました。森のいちばんおく深くさびしいところまで追いかけていくと、こんどこそ、思いっきり気味の悪い声をつくって、「なあ」と、お坊さんの肩をたたきました。
けれど、お坊さんはあいかわらず、すたすたすたすたと歩き続けます。なあは、まっ黒なゆげをたてるほどにおこりました。そして、足もとの石ころや木切れをけとばしながらお坊さんを追いこすと、ま正面からお坊さんの前に立ちはだかって、
「なあ!」
と、大きな声を上げました。
お坊さんは、ぴたりと立ち止まりました。そしてまっすぐに、なあの目を見ると、「それで?」といいました。
なあは、びっくりしました。それからますます腹が立ちました。そこで、のどがはりさけるほどの声を上げて、
「なあ!」
と、さけびました。
お坊さんは、なあの頭のてっぺんからつま先まで、じっと見つめました。それから静かな声で、「それで、なんだね」といいました。
なあは、とつぜんこわくなりました。おなかの底がきゅうっとしぼられるような気持ちになりました。
「それで、おまえは何がいいたいのだね」
お坊さんは、あいかわらず穏やかな声でいいました。なあは、もうどうしていいかわからず、それでも、やっとの思いでたったひとつだけいえる言葉をはき出しました。
「なあ、……あそぼうよ」
お坊さんは大きくうなずくと、両手を合わせてふかぶかと、なあにおじぎをしました。それからゆっくりと、なあのわきをすりぬけました。そしてそのまま、すたすたと歩いていきました。
なあは、何もかも思い出しました。小さな子どもだったころのこと、「なあ、あそぼうよ」と話しかけても、だれも遊んでくれなかったこと、「なあ、なあ」と いっても、だれも返事をしてくれなかったこと、そして森にはいって、ひとりぼっちでくらすようになったこと。わすれていたことがどんどんあとから出てきま した。
なあの目から、なみだがこぼれはじめました。なあは泣いて、泣いて、どんどん大つぶのなみだをこぼしました。なあのからだになみだがかかると、なあのからだはとけはじめました。どんどんとけて、そしてさいごに、小さな男の子が残りました。
男の子は、お坊さんのあとを追って、かけ出しました。けれど、いくら走っても、お坊さんのすがたは見えません。どんどん走って、やがて気がつくと、男の子は森のはずれにある小さなむらのなかまでやってきていました。
泣いている男の子を、しわだらけの手が抱き上げました。こうして男の子は、子どものないむらの年寄りにひきとられて育てられることになりました。
やがて男の子は、思慮深いりっぱな若者に育ち、出家して徳の高いお坊さんになったということです。
(初出:February 23, 2009)