広い、広い野原の真ん中に、一本の電信柱が立っていました。町から遠く離れて、あたりには人っ子一人見当たらない、荒れ果てた野原です。いったいこんなところに、なぜ電信柱が立っているのでしょう。
この野原の遠く離れた向こうの山のそのまた向こうに、発電所があるのかもしれません。そして、その反対側の遠くの町に、電気を送るというのでしょう。いえ、それならば一本だけ、電信柱が立っているはずはありません。何十メートルかごとに一列に電信柱が並んでいて、そこに一本の電線が通って、はじめて電気を送ることができるはずです。ところがこの電信柱のそばには、ほかにただの一本も電信柱がないばかりか、工事をしようとしたあとかたさえないのです。
では、この近くに誰かが住んでいたのでしょうか。そして電気を引こうと思って電信柱を立てて、けれど、電気がやってくる前に引っ越してしまったのでしょうか。それならば、近くにほかの電信柱がないことも説明がつくというものです。けれど、誰もこの近くに住んだようすはありません。いちばん近くに人が住んでいたのは木こりたちが仕事のための仮住まいを建てていた50年以上も前のことで、それもここからは歩いて半時間もかかるほど遠くの場所です。この電信柱とは関係がないのです。
そう、それでも、その男たちが住んでいた時代に戻ってみるべきなのかもしれません。そのころ、この電信柱は立っていませんでした。野原もありませんでした。このあたりはずっと森が広がっていたのです。森の中ではたねが芽をふき、若木になり、やがて一人前の大木へと育っていきます。やがて木は老い、朽ち果てて、また新しいたねが芽をふきます。何百年も、何千年も、そんなことがくりかえされてきました。
ここに、また新しいたねが芽をふきました。この杉のたねは、まわりの大きな木々に守られるようにすくすく育ち、やがて美しい若木になりました。
この杉の木には、一本の幼なじみの樺の木がありました。芽をふいたころにはずいぶんはなれていてお互いのことは知りませんでした。育ち盛りのある初夏の朝、茂みの間からのびあがったとき、はじめて緑の葉っぱの先が見えたのです。杉の木はすっかり嬉しくなりました。というのは、それまでまわりには愛想のない下草のほかにはおとなの木しかなく、自分と同じ年ごろのなかまを見たことがなかったからです。嬉しさのあまり緑の葉っぱをそよがせると、そのやわらかな樺の木も、黄緑の若葉をゆすって笑ったのです。
それからはずっと、二本の木はいっしょに育ちました。大きく育ってみると、枝を伸ばせば届くほど近くにいることがわかりました。小さいころはあんなに遠くにいると思っていた樺の木がこんなに身近なことを知って、杉の木はおかしな気持ちになりました。おとなの中には、「なに、そのうちお日様の光をとりあいするようになるさ」と冷たい笑いを浮かべる木もいましたが、杉の木は気にしませんでした。ほんとうのところ、二本の木はそれほどまでには近くにはいなかったのです。ほどよい近さで、二本の木はなかよくおとなになりました。
お天気の日には小鳥たちが枝に羽を休めるようになりました。気持ちのいい初夏には風が吹き抜けました。冬の嵐には芯まで凍るような気持ちになりました。雷が近くに落ちて身を引き裂かれそうになったことさえあります。そんなときには、二本の木は顔を見合わせて、お互いの無事を喜んだものでした。
そんなふうに、二本の木はあらゆるわざわいをのりこえ、大きく育ちました。そして、しあわせな毎日がいつまでも続くのだと、杉の木は思うのでした。
ところがその秋、木こりたちがやってきたのでした。木こりたちはまず、森の端の方で手早く何本かの木を切りました。その木を使ってあっという間に小さな小屋を建てると、今度は楢や栗の枝を払っていきました。やがて木こりたちの小屋からもくもくと煙が上がるようになって、これは薪にするためだったのだということがわかりました。そのうちに木枯らしがふきはじめると、木こりたちは分厚い蓑を着込んで頑丈な斧を担ぎ、森の中に入ってきました。そして、何本もの太い木が切り倒されました。
「いったいこんなに切って何に使うんだ」
焚き火のそばでたばこをふかしながら、一人の木こりが話すのを杉の木は聞きました。
「なんでも南洋の方で鉄道を敷くんだとよ」
もう一人の木こりが小馬鹿にしたような口調で言いました。
「枕木にはこの山一つでも足りないぐらいだ」
「そりゃたいそうだ」
たばこの煙を吹きながら最初の木こりが感心しました。
「さぞかし長い鉄道なんだろうな」
そして木こりたちは腰を上げて仕事に戻りました。
杉の木が切られたのは、その翌日でした。ああ、ぼくは枕木になるんだな、と杉の木は思いました。枝を落とされ、地面に倒れたとき、気が遠くなりながらそう思ったのです。
そして、気がついたとき、杉の木は寒々とした小さな町のはずれで、電信柱になっていました。木というのは不思議なもので、まっすぐに立つと気をとりなおすのですね。杉の木は、そこが南洋ではないのを知ってちょっとびっくりしました。自分が枕木ではないことを知って、少しほっとしました。なんといっても冷たい線路と砂利石の間にはさまれて、しじゅう踏みつけられるのはいやなものですものね。
電信柱の杉の木は、あたりを見回しました。板をうちつけてつくった煙突のある家が通りのはしまでつづいています。大きな建物はありません。煙を上げて、遠くを汽車が通ります。駅があるのでしょうか。汽笛の響く方からは、まばらに人が歩いてきます。荷車がやってきます。積んでいるのは炭俵でしょうか。りんご箱でしょうか。
遠くを見やると、山なみが見えます。あわくかすんだそのかげを見ていて、電信柱は気がつきました。そうです。あの山には見おぼえがあります。見る向きがちがっていて同じようには見えないけれど、あの山こそ、自分が生まれ育った森から遠くに見えていた山にちがいありません。電信柱の心はおどりました。あの山を目印にしていけば、きっと自分のふるさとに帰ることができるはずだと思ったからです。
そして、電信柱はふるさとに向かって、歩きはじめました。どんなふうに電信柱が歩いたのかって、それは聞かないでくださいね。私だって、知りたいと思っているのです。けれど、私も見たわけではありません。ただ、電信柱がどうにかしてこの見知らない町からふるさとの森にまで帰ってきたのは確かなのです。
いいえ、ふるさとの森に帰れたのではありません。帰ってみれば、そこは切り株ばかりが残っている荒れ果てた野原でした。若木のころから見守ってくれたおとなたちは、もうそこにはいません。それ以上に、あの幼なじみの樺の木の姿がどこにもないのが、杉の木の心を引き裂きました。
杉の木は、友を思って泣きました。小鳥たちにうわさ話を聞こうとしたけれど、むだでした。もう小鳥たちが昔のように枝にとまっておしゃべりをしてくれることもなかったのです。小鳥たちも知らなかったことでしょう。きっと樺の木は、木こりたちが話していたように、枕木になって南洋に送られたにちがいないのです。
電信柱の杉の木の鳴き声は、長く野原にこだましました。けれど、それもだんだん小さくなりました。時間というのはとてつもない力をもっているものです。やがて電信柱は声をあげる力もなくし、ただそこにじっと立ちつくすようになりました。何年も何年も、そうやって立っていました。そして、いまでも野原の真ん中に、ひとりで立っているのです。
もしもあなたが、この電信柱の肌にそっと耳をおしあててじっと聞いていれば、友を思う杉の木の声が聞こえるかもしれませんよ。お天気のいい日に、運がよければね。
この野原の遠く離れた向こうの山のそのまた向こうに、発電所があるのかもしれません。そして、その反対側の遠くの町に、電気を送るというのでしょう。いえ、それならば一本だけ、電信柱が立っているはずはありません。何十メートルかごとに一列に電信柱が並んでいて、そこに一本の電線が通って、はじめて電気を送ることができるはずです。ところがこの電信柱のそばには、ほかにただの一本も電信柱がないばかりか、工事をしようとしたあとかたさえないのです。
では、この近くに誰かが住んでいたのでしょうか。そして電気を引こうと思って電信柱を立てて、けれど、電気がやってくる前に引っ越してしまったのでしょうか。それならば、近くにほかの電信柱がないことも説明がつくというものです。けれど、誰もこの近くに住んだようすはありません。いちばん近くに人が住んでいたのは木こりたちが仕事のための仮住まいを建てていた50年以上も前のことで、それもここからは歩いて半時間もかかるほど遠くの場所です。この電信柱とは関係がないのです。
そう、それでも、その男たちが住んでいた時代に戻ってみるべきなのかもしれません。そのころ、この電信柱は立っていませんでした。野原もありませんでした。このあたりはずっと森が広がっていたのです。森の中ではたねが芽をふき、若木になり、やがて一人前の大木へと育っていきます。やがて木は老い、朽ち果てて、また新しいたねが芽をふきます。何百年も、何千年も、そんなことがくりかえされてきました。
ここに、また新しいたねが芽をふきました。この杉のたねは、まわりの大きな木々に守られるようにすくすく育ち、やがて美しい若木になりました。
この杉の木には、一本の幼なじみの樺の木がありました。芽をふいたころにはずいぶんはなれていてお互いのことは知りませんでした。育ち盛りのある初夏の朝、茂みの間からのびあがったとき、はじめて緑の葉っぱの先が見えたのです。杉の木はすっかり嬉しくなりました。というのは、それまでまわりには愛想のない下草のほかにはおとなの木しかなく、自分と同じ年ごろのなかまを見たことがなかったからです。嬉しさのあまり緑の葉っぱをそよがせると、そのやわらかな樺の木も、黄緑の若葉をゆすって笑ったのです。
それからはずっと、二本の木はいっしょに育ちました。大きく育ってみると、枝を伸ばせば届くほど近くにいることがわかりました。小さいころはあんなに遠くにいると思っていた樺の木がこんなに身近なことを知って、杉の木はおかしな気持ちになりました。おとなの中には、「なに、そのうちお日様の光をとりあいするようになるさ」と冷たい笑いを浮かべる木もいましたが、杉の木は気にしませんでした。ほんとうのところ、二本の木はそれほどまでには近くにはいなかったのです。ほどよい近さで、二本の木はなかよくおとなになりました。
お天気の日には小鳥たちが枝に羽を休めるようになりました。気持ちのいい初夏には風が吹き抜けました。冬の嵐には芯まで凍るような気持ちになりました。雷が近くに落ちて身を引き裂かれそうになったことさえあります。そんなときには、二本の木は顔を見合わせて、お互いの無事を喜んだものでした。
そんなふうに、二本の木はあらゆるわざわいをのりこえ、大きく育ちました。そして、しあわせな毎日がいつまでも続くのだと、杉の木は思うのでした。
ところがその秋、木こりたちがやってきたのでした。木こりたちはまず、森の端の方で手早く何本かの木を切りました。その木を使ってあっという間に小さな小屋を建てると、今度は楢や栗の枝を払っていきました。やがて木こりたちの小屋からもくもくと煙が上がるようになって、これは薪にするためだったのだということがわかりました。そのうちに木枯らしがふきはじめると、木こりたちは分厚い蓑を着込んで頑丈な斧を担ぎ、森の中に入ってきました。そして、何本もの太い木が切り倒されました。
「いったいこんなに切って何に使うんだ」
焚き火のそばでたばこをふかしながら、一人の木こりが話すのを杉の木は聞きました。
「なんでも南洋の方で鉄道を敷くんだとよ」
もう一人の木こりが小馬鹿にしたような口調で言いました。
「枕木にはこの山一つでも足りないぐらいだ」
「そりゃたいそうだ」
たばこの煙を吹きながら最初の木こりが感心しました。
「さぞかし長い鉄道なんだろうな」
そして木こりたちは腰を上げて仕事に戻りました。
杉の木が切られたのは、その翌日でした。ああ、ぼくは枕木になるんだな、と杉の木は思いました。枝を落とされ、地面に倒れたとき、気が遠くなりながらそう思ったのです。
そして、気がついたとき、杉の木は寒々とした小さな町のはずれで、電信柱になっていました。木というのは不思議なもので、まっすぐに立つと気をとりなおすのですね。杉の木は、そこが南洋ではないのを知ってちょっとびっくりしました。自分が枕木ではないことを知って、少しほっとしました。なんといっても冷たい線路と砂利石の間にはさまれて、しじゅう踏みつけられるのはいやなものですものね。
電信柱の杉の木は、あたりを見回しました。板をうちつけてつくった煙突のある家が通りのはしまでつづいています。大きな建物はありません。煙を上げて、遠くを汽車が通ります。駅があるのでしょうか。汽笛の響く方からは、まばらに人が歩いてきます。荷車がやってきます。積んでいるのは炭俵でしょうか。りんご箱でしょうか。
遠くを見やると、山なみが見えます。あわくかすんだそのかげを見ていて、電信柱は気がつきました。そうです。あの山には見おぼえがあります。見る向きがちがっていて同じようには見えないけれど、あの山こそ、自分が生まれ育った森から遠くに見えていた山にちがいありません。電信柱の心はおどりました。あの山を目印にしていけば、きっと自分のふるさとに帰ることができるはずだと思ったからです。
そして、電信柱はふるさとに向かって、歩きはじめました。どんなふうに電信柱が歩いたのかって、それは聞かないでくださいね。私だって、知りたいと思っているのです。けれど、私も見たわけではありません。ただ、電信柱がどうにかしてこの見知らない町からふるさとの森にまで帰ってきたのは確かなのです。
いいえ、ふるさとの森に帰れたのではありません。帰ってみれば、そこは切り株ばかりが残っている荒れ果てた野原でした。若木のころから見守ってくれたおとなたちは、もうそこにはいません。それ以上に、あの幼なじみの樺の木の姿がどこにもないのが、杉の木の心を引き裂きました。
杉の木は、友を思って泣きました。小鳥たちにうわさ話を聞こうとしたけれど、むだでした。もう小鳥たちが昔のように枝にとまっておしゃべりをしてくれることもなかったのです。小鳥たちも知らなかったことでしょう。きっと樺の木は、木こりたちが話していたように、枕木になって南洋に送られたにちがいないのです。
電信柱の杉の木の鳴き声は、長く野原にこだましました。けれど、それもだんだん小さくなりました。時間というのはとてつもない力をもっているものです。やがて電信柱は声をあげる力もなくし、ただそこにじっと立ちつくすようになりました。何年も何年も、そうやって立っていました。そして、いまでも野原の真ん中に、ひとりで立っているのです。
もしもあなたが、この電信柱の肌にそっと耳をおしあててじっと聞いていれば、友を思う杉の木の声が聞こえるかもしれませんよ。お天気のいい日に、運がよければね。
(初出:February 25, 2009)