March 17, 2009投稿の再掲
「重吾さんのストーブ」に登場する重吾さんは、実在の人物です。その筋ではかなりの有名人なのですが、残念なことにWebの時代、Googleで検索をかけてもほとんど情報は出てきません。Webの情報というのはけっこう偏っているもののようですね。
私がたいへんお世話になった宮本重吾さんは、1年前にお亡くなりになりました。ここ数年はたいへんご無沙汰していましたので、私はそのことを知らず、つい先日、知人から聞かされて驚きました。不思議なもので、重吾さんが亡くなったころからときどき重吾さんのことを思い出し、いちど連絡をしなければと思っていました。それだけに余計に残念ですが、まあ人生とはそういうものかもしれません。
そんな思いがあったせいか、息子のまことを相手に薪ストーブのネタでおはなしをつくろうとしていた夜、重吾さんのことが出てきました。だから、このおはなしの枠組みは、実際に私が重吾さんの農場に居候していたときのことを使っています。
ただ、実際に重吾さんがこういう話をしてくれたかといえば、それは虚構ということになります。おはなしの中にも書いたように、重吾さんは非常に忙しい人で、常に用事が先に来ました。活動の構想がどんどん出てくるので、そっちの方が話の中心になってしまうわけです。ですから、重吾さんの家があったむらの史実に関しては、私はほとんど知りません。この部分も虚構ということになります。
しかし、たどった道筋は大きくはずしていないつもりです。1960年前後から急速に衰退した山村の近代史は、あちこちで聞きました。このおはなしの直接の下敷きにしたのは京都北部の小さなむらの歴史ですが、似たような話は別の京都のむらでも、兵庫県の山間地でも、あるいは東北のむらでもあったと聞きます。電気やプロパンガス、自動車や農業機械といった文明の利器がやってくるとほとんど踵を接するようにして、多くの山村の衰退がやってきました。それは、こういった文明の利器が直接手を下したのではありません。そういった文明の利器がもたらした生活スタイルの変化が、山村の生活基盤を破壊してしまったのです。だから、これは廃村になってしまったへんぴなむらだけの話ではなく、現在は都会に住む私たちの暮らしに直結した歴史でもあるわけなのです。
そういった歴史を伝える相手として、6歳の保育園児は幼すぎるかもしれません。けれど、まことは熱心に聞いてくれました。それはきっと、父親の若いころの話を聞くのが興味深いという側面があったからに違いありません。私がときどき、妻と重吾さんのことを話していたからかもしれません。あるいは、「どんどん便利になると、どんどん不便になっていく」という逆説的な話の進行がおもしろかったのかもしれません。もしもそうだとしたら、このおはなしは成功なのですが、さて、実際はどうだったのでしょう。
おはなし会を始める前に、このネタは完成していました。ですから、「いつでも出せる」予備のネタとしてずっと待機はしていたのです。ただ、機会がありませんでした。息子以外の子どもたちならどう反応したかは、非常に気になるところです。来年、機会があれば試してみたいと思います。
ちなみに、重吾さんは、いわゆる「有機農業」をする百姓でした。破天荒なアイデアを次々に打ち出し、「世直し」をするのだと日本中を駆けずり回りました。毀誉褒貶さまざまありますが、私は重吾さんからずいぶんいろんなことを学ばせていただきました。もっとも、もしも彼がこのおはなしを読んだら、「君は私の言うことをちっとも聞いとらんな」と呆れることでしょうけれど。
「重吾さんのストーブ」に登場する重吾さんは、実在の人物です。その筋ではかなりの有名人なのですが、残念なことにWebの時代、Googleで検索をかけてもほとんど情報は出てきません。Webの情報というのはけっこう偏っているもののようですね。
私がたいへんお世話になった宮本重吾さんは、1年前にお亡くなりになりました。ここ数年はたいへんご無沙汰していましたので、私はそのことを知らず、つい先日、知人から聞かされて驚きました。不思議なもので、重吾さんが亡くなったころからときどき重吾さんのことを思い出し、いちど連絡をしなければと思っていました。それだけに余計に残念ですが、まあ人生とはそういうものかもしれません。
そんな思いがあったせいか、息子のまことを相手に薪ストーブのネタでおはなしをつくろうとしていた夜、重吾さんのことが出てきました。だから、このおはなしの枠組みは、実際に私が重吾さんの農場に居候していたときのことを使っています。
ただ、実際に重吾さんがこういう話をしてくれたかといえば、それは虚構ということになります。おはなしの中にも書いたように、重吾さんは非常に忙しい人で、常に用事が先に来ました。活動の構想がどんどん出てくるので、そっちの方が話の中心になってしまうわけです。ですから、重吾さんの家があったむらの史実に関しては、私はほとんど知りません。この部分も虚構ということになります。
しかし、たどった道筋は大きくはずしていないつもりです。1960年前後から急速に衰退した山村の近代史は、あちこちで聞きました。このおはなしの直接の下敷きにしたのは京都北部の小さなむらの歴史ですが、似たような話は別の京都のむらでも、兵庫県の山間地でも、あるいは東北のむらでもあったと聞きます。電気やプロパンガス、自動車や農業機械といった文明の利器がやってくるとほとんど踵を接するようにして、多くの山村の衰退がやってきました。それは、こういった文明の利器が直接手を下したのではありません。そういった文明の利器がもたらした生活スタイルの変化が、山村の生活基盤を破壊してしまったのです。だから、これは廃村になってしまったへんぴなむらだけの話ではなく、現在は都会に住む私たちの暮らしに直結した歴史でもあるわけなのです。
そういった歴史を伝える相手として、6歳の保育園児は幼すぎるかもしれません。けれど、まことは熱心に聞いてくれました。それはきっと、父親の若いころの話を聞くのが興味深いという側面があったからに違いありません。私がときどき、妻と重吾さんのことを話していたからかもしれません。あるいは、「どんどん便利になると、どんどん不便になっていく」という逆説的な話の進行がおもしろかったのかもしれません。もしもそうだとしたら、このおはなしは成功なのですが、さて、実際はどうだったのでしょう。
おはなし会を始める前に、このネタは完成していました。ですから、「いつでも出せる」予備のネタとしてずっと待機はしていたのです。ただ、機会がありませんでした。息子以外の子どもたちならどう反応したかは、非常に気になるところです。来年、機会があれば試してみたいと思います。
ちなみに、重吾さんは、いわゆる「有機農業」をする百姓でした。破天荒なアイデアを次々に打ち出し、「世直し」をするのだと日本中を駆けずり回りました。毀誉褒貶さまざまありますが、私は重吾さんからずいぶんいろんなことを学ばせていただきました。もっとも、もしも彼がこのおはなしを読んだら、「君は私の言うことをちっとも聞いとらんな」と呆れることでしょうけれど。