子どものためのおはなし
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「サンタクロースのわすれもの」について

12/27/2016

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サンタクロースのわすれものは、私自身が忘れ物をしたときに生まれたお話です。12月のある日、5歳の女の子を訪れるときに、読み聞かせをしようとかばんに詰め込んでいた何冊かの本を玄関に忘れてしまっていたことに気がつきました。いまさら取りに帰るわけにもいかず、車を運転しながら、どうやってごまかそうかなと考えていました。保育園の子どもたちに話して聞かせたように、またなにか出任せのお話でもしようかと、ようやく気持ちが決まり、クリスマスも近いので、サンタクロースのお話でもしようかと思いました。とはいえ、私はサンタクロースのことをあまり知りません。知らないことをさも知っているように喋るのも気が進まないことです。サンタクロースで知っていることといえば、童謡に出てくるような簡単なイメージだけです。そういえば、「あわてんぼうのサンタクロース」という歌があったなと思ったとき、思わず笑ってしまいました。なにしろ、玄関先に本を忘れてくるあわてんぼうは、サンタクロースではなく、私なのですから。そして、その瞬間にこのお話が浮かびました。あわてんぼうのサンタクロースは日付を間違えるのですが、もっとありそうなのは荷物を忘れることでしょう。そして、荷物を忘れたサンタクロースがどうやってその夜をごまかしたのか、これはなかなか興味深いことです。

車が女の子の家につく頃にはあらかたお話はできていたのですが、残念ながら彼女はこの日はお絵かきに夢中で、おはなしを聞くような気分ではありませんでした。ですから、このお話も語らず仕舞です。ただ、せっかくできた記念に、ここに書き残しておくことにします。
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「へんなコップ屋さん」について

6/1/2015

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最近は新作のおはなしをつくることもほとんどなくなったのですが、たしか去年の冬に保育園の子どもたちが来てくれたとき、「おはなししようか」との呼びかけに「へんなコップ屋さんのおはなしをして!」とのリクエストがありました。ひょっとしたらこれはその子の知っているおはなしなんだろうなと思いながら、ちょっと想像力を刺激されて即興でつくったのがこの「へんなコップ屋さん」です。ですから、どこかに同名のまったくちがうおはなしがあるのかもしれません。
話の骨格は、古い笑い話からもらいました。壺屋を訪れた客が、壺の口がふさがっている、底が抜けていると、難癖をつけるおはなしです。それを客である語り手の勘違いというように展開しました。夏の暑い日には、日頃見慣れたこの世界がまるでどこか別の次元に落ち込んだような錯覚におそわれます。そういう不思議な浮揚感を描きたいと思いましたが、さて、どうだったでしょうか。
ちなみに、車の便がなくて山道をてくてくと歩くというような馬鹿な真似を、わかい頃の私はよくやりました。そういう時代の思い出があるので、私にとってはちょっと嬉しい作品でもあります。
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「魔法の丸太小屋」について

5/25/2015

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うちの近所の保育園には丸太小屋があります。息子が通っていた頃には、そこで週1回、元園長の「まーじょさん」という方がおはなしを聞かせてくれていました。まーじょさんはその後、おはなしのほうは引退されたのですが、いまでもお元気に活動しておられると聞きます。
ただ、この丸太小屋、1年ほど前に近くを通ったときに見たら、かなり古びてしまっていました。たぶん、屋根は葺き替えないといけないでしょう。もう30年も前に当時の保育士さんたちの手作りでできた小屋です。まだまだ頑丈ではあるのですが、「こういうものもいつかは終わりを迎えるんだろうな」と思うと、ちょっとかなしい気持ちになったのは事実です。
そんなことが記憶の奥にあったからでしょう。今年の2月、保育園の年長さんたちが遊びに来る「おはなし会」(もう「おはなし会」ではなくなってしまっているのですけれど)のときに、ひさしぶりに新作のおはなしをと思ったときに、この「魔法の丸太小屋」ができました。「いつかこわれてしまう」と、かなしむのではなく、実際にこわさなければいけなくなったときのことを想像してみたのです。そうしたら、そんなにかなしくなりませんでした。
保育園の子どもたちには、毎日親しんでいる丸太小屋が壊れてしまうというのはショッキングだったかもしれません。けれど、現実にまだそこにあるわけですから、子どもたちは素直にフィクションとして(あるいは別の遠い場所で起こった話として)聞いてくれました。思い出という魔法、友情という魔法について、私が考えていることがどれくらい伝わったのかはわかりません。けれど、ひさしぶりの新作としては、わるい反応ではなかったと思っています。
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「シャワー」について

5/18/2015

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いつつくったのかもわかりません。ファイルを整理したら出てきたのがこの「シャワー」です。確かに私がつくった作品だろうと思うのですが、なんのために、なにを考えてつくったのか思い出せません。中身も有名な絵本「おふろだいすき」にあまりによく似ています。なんだかなあと思うのですが、まあ、虫干しとしてアップしておきます。
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「豚と猪」について

5/18/2015

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May 02, 2011投稿の再掲

「豚と猪」は、もともと別のおはなしのなかで喩え話として使ったネタでした。それは、「安全」と「自由」という全く異なった概念が、実は人間の行動の中で深く結びついているということをわかりやすく説明するための工夫でした。
管理され、守られた豚小屋は、豚にとっては安全な場所です。猪の棲む野生は、危険であるだけでなく、不安定で、どのような災厄が待っているか予測のできないところです。「安全」ということからいえば、豚にとっては豚小屋以上の場所はないはずです。たとえそれが最終的に屠殺場に至る道であったとしても、そこが平和で衛生的で安心できる場所であるという事実に変わりはないはずです。
しかし、猪にとっては、そこは牢獄です。猪の暮らしにとって、自由ほどかけがえのないものはないからです。けれど、なぜ自由が重要なのかといえば、それは猪の生活が危険で不安定だからなのですね。危険を回避し、餌を確保するために自由が必要なのです。だから、自由は安全と安定のための可能性なのです。そして、人間にとっては、目に見える形として与えられる安全と安定よりは、目に見えない可能性として安全と安定を支える自由のほうが大切なのです。

この喩え話は、原子力発電所の問題を考えるために提案したものです。原発は、危険だと言われていますし、実際に今回の震災ではとてつもない被害を撒き散らしました。けれど、平常時は安定して恩恵を与えてくれます。であるのにこれがどうも胡散臭いのは、自由を奪うからだと私はそんなふうに思うのですね。
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「泣き虫の男の子」について

5/18/2015

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June 28, 2010投稿の再掲

5月連休の直前、息子のまことが転んで腕の骨を折りました。辛い経験だったろうと思いますが、最初の1、2日少し落ちこんだだけで、すぐに元気をとりもどしました。子どもの回復力、特に精神的な回復力は大したものです。

そんなこともあって、たぶん5月の半ば頃、ひさしぶりに寝る前の「おはなし」をしてやりました。実は、骨を折って半月もたつと、普通に叱られることも多くなります。この日も叱られて泣いてしまったので、それをなだめるためという意味もありました。

だから、「泣き虫の男の子」は、まことにとってちょっと辛い話にもなったはずです。そこをお説教臭くならないようにするために、医者、呪い師、坊主とのやりとりをコミカルにしました。そのおかげでまことはすっかり喜んでくれました。後半の鬼が出てくるあたりは、情景的には「こぶとりじいさん」の流用です。男の子が使者として大役を果たすというのは、名作でまことも好きな「モチモチの木」あたりの設定を借りてしまったかもしれません。

このおはなし、すぐに書き留めておこうとしたのですが、半分ほど書いたところで忙しくなって長く放置してありました。その間にまことの腕はすっかり元通りになり、以前にも増して活発に走り回っています。懲りないと言えばそうなのですが、このぐらいの元気はやはり必要なのですね、泣き虫の男の子にも。
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息子の寝顔

5/18/2015

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February 05, 2010投稿の再掲

「おはなし会」で使ったネタや、使っていないけれどここに書いてきたネタは、ほとんどが息子のまことが寝るときに語って聞かせたものです。「おはなしして」というリクエストに応えて無理やりにつくりあげたものから出発し、昨年からはおはなし会向けに意識してつくったものを寝かせるときにネタ下ろしすることも増えました。いずれにせよ、私のお話はまことがいなければ生まれなかったものです。

昨夜、私もちょっと眠かったので、「今日は久しぶりに早く寝よう」と思いました。小学校1年生のまことは、だいたい夜9時に布団に入ります。一緒に布団に入ってそのまま寝てしまおうと思いました。そして、「ついでだから久しぶりにお話を聞かせてやろう」とも考えました。

ところが、妻にちょっと頼まれ事をいわれ、5分か10分ほど余分に時間をとってから寝室に入ると、まことはもうすっかりすやすやと寝入っていました。いつもは寝つきが悪く、そのせいで「おはなし」が必要だったわけです。それが何とも驚く寝つきのよさ。ついさっきまで鼻歌が聞こえていたというのに。

成長したのだなと思います。そして、ひとつの時代が終わったのかなとも。「おはなしして」のリクエストはずいぶん減っているのですが、これからますます減るでしょう。いままでと同じようにはおはなしは生まれなくなっていきます。残念な気もする一方で、少しうれしくもあります。大きくなってくれたものだと。
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「青いお城」について

5/18/2015

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December 28, 2009投稿の再掲

~ 森トンカツ 泉ニンニク かコンニャク まれテンプラ ~
と歌っても、40代以上でなければ何のことかわからないでしょう。1960年代に「グループサウンズ」として一斉を風靡したブルーコメッツの代表曲「ブルーシャトウ」をもじった歌い方で、ほとんど意味もないくせに、当時の小学生なら誰でも歌っていたものです。「森と泉に囲まれて静かに眠るブルーシャトウ。あなたは僕を待っている、暗くて寂しいブルーシャトウ。きっとあなたは赤いバラの香りが苦しくて、涙をそっと流すでしょう」という歌詞も相当に意味不明なのですが、これにトンカツやらコンニャクやらが入ってくるともう徹底的なナンセンスになります。それがウケたのでしょうか。歴史の謎です。

そういう時代に小学生だった私や妻が、ふとしたはずみで「森トンカツ」と歌ったのが、小学一年生の息子のまことにウケました。そこで「ブルーシャトウ」の原曲を聞かせたら、彼は彼なりにすっかりハマってしまい、そらで歌えるようにまでなりました。この「青いお城」は、そんなまことに話して聞かせたものです。ですから、ジョークでしかありません。ちょっと他の人に見せるのはどうかなとも思ったのですが、結末をちょっと変えたシリアスバージョンで掲載しておきました。

まことに聞かせたお笑いバージョンでは、結末のところがこんなふうになります。

とっさに、旅人は老女にもらった包を投げつけました。中からトンカツが転がり出ました。犬は、うまそうな臭いにつられ、とびつきました。....旅人は急いで荷を下ろしました。袋の中からニンニクのかけらを取り出すと、それを魔物に向かって投げつけました。....村では、あの湖のほとりの城の呪いが解けたことを知って、人々が喜びました。そして、お祭り騒ぎの中で、二人はコンニャク(婚約)しました。やがて行われた二人の婚礼には、テンプラのご馳走が出たということです。

つまり、「トンカツ、ニンニク、コンニャク、テンプラ」の四題話を「ブルーシャトウ」の物語世界の中で展開してしまったのです。シリアスに、まるでグリム童話のようにおどろおどろしく中世の魔法の世界を展開していき、最後に一気に駆け抜けるように「トンカツ、ニンニク、コンニャク、テンプラ」とやったら、まことは大笑いしました。しかし、これがおもしろいと思えるためには、小学一年生の空想と1960年代のネタを同時に心の中に持っていなければなりません。一般にそれは無理な話です。ですので、このお話はどこまでいっても内輪のネタでしかありません。

シリアスバージョンの方は、単純に「ブルーシャトウ」の世界をグリム童話風にアレンジしただけなので、どうということのないものです。まあ、この先、使うこともないでしょう。まことにウケた記念にだけ、アップしておきます。
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「おはなし」の力

5/18/2015

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December 14, 2009投稿の再掲

1ヶ月ほど前から毎日薪ストーブではがんがん火が燃えています。今シーズンも「薪ストーブのおはなし会」、やります。ただ、ちょっと都合で、ほとんどぶっつけ本番になりそう。下地がない場合にどうなるか、ひとつの実験かもしれません。

それはそれとして、インフルエンザが流行って、小学一年の私の息子もきっちり罹りました。親の不注意で感染させてしまったようで申し訳ないのですが、ちょうど学級閉鎖が解ける日に発熱したので、まるまる1週間の休みとなってしまいました。

退屈しているようなので、このサイトに記録してあったお話をいくつか選んで本の形にプリントアウトしてプレゼントしました。小学校一年生にしては息子はよく本を読みます。このぐらいの文字なら難なく読めると思いました。念のため、かなり平仮名を増やしておきましたし。

これらのお話は、いずれも少なくとも一度は寝る前に話して聞かせてやったものばかりです。しかも、けっこう喜んで聞いてくれたものばかり。ところが、息子は、読んでくれませんでした。「難しい」というのです。

同じ話が、「おはなし」として語って聞かせたときは「わくわくする」ほどおもしろいのに、本の形で見せると読み通せないほど難しくなります。やはりこれは、「語り」というものの力なのでしょう。

読んで難しい言葉は、聞いても難しい、むしろ聞いた方が難しいはずです。けれど、その難しさは、クリアできるのです。読めば引っかかってしまうところが、聞くと素直に流れていきます。理解できなくても、筋を追うことはできます。そして、筋を追いかけ始めれば、細かな言い回しなどどうでもよくなるのでしょう。むしろ、わからないところがある方が、想像力をかきたてられるのかもしれません。

ちょっと興味深い出来事でした。
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「行かず池の話」について

5/18/2015

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November 19, 2009投稿の再掲

1ヶ月ほど前、息子のまことを寝かしつけながら、いくつかのお話がまとまってできました。「行かず池の話」もそのひとつです。簡単な話なのに、なかなか書き留められず、ようやく一昨日、文字にすることができました。中途半端に書きかけで放ってあるのは気持ちがよくないので、少しだけ、ほっとしました。

この話、フィクションではあるのですが、ある意味、現代社会では実にありそうな話でもあります。「新薬」を求める研究は、それが莫大な富に結びつくことから飽くことなく続けられています。その効能が実験室でたしかめられ、認可を経て、市場に出ます。ところが、薬というのは決して単純なものではありません。「ここを押したらこっちが引っ込む」といった直線的な因果関係だけで成立しているものではないのです。結果として、薬は人間社会全体に変化をもたらし、そして、富の基盤そのものを危うくします。

私はかつて、短期間ではあるけれど健康食品を扱う会社に勤め、そんな現場をつぶさに見てきました。そういった体験から思いついた話なので、子ども向けにしてはずいぶんと生臭いお話かもしれません。そういう意味では、あまりできのいい話ではないようにも思います。

なお、「いかず池」ほど極端ではありませんが、「探しても見つからないけれど探していないときには見つかる」ような地点は、山に登っているとたまに経験することです。「あそこで昼飯にしよう」と思って記憶にある気持ちのいい空き地を探すのですが見つからず、しかたないから他で済ませ、帰り道にその空き地を通りかかる、というような具合です。その場所がなくなったわけではないので、森を切り開けばきっと出てくるはずです。けれど、木立がなくなってしまえば、「気持ちのいい空き地」もなくなってしまうのです。そのあたりのパラドックスをおもしろいと思ってもらいたくて後半の展開を考えたのですが、なかなか難しいものですね。
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