子どものためのおはなし
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「どっこいしょ」について

3/10/2011

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「どっこいしょ」は、割とバリエーションのある話です。ここではごちそうを「だんご」としてありますが、これがもっと別の料理だったり別の名前だったりすることもあります。いい間違える言葉も「どっこいしょ」ではなく、別の言葉であることも多いようです。
私は、このおはなしを子どもの頃、「日本のわらい話」というようなタイトルの子ども向けの本で読みました。それ以来、何度も忘れ、何度も新たに読んだり聞いたりしながら、現在に至っています。親から子へと一筋の糸のようにおはなしが語り継がれた時代とはちがって、現代はこんなふうに、いろいろなところから流れ込んでくるおはなしを自分の中で咀嚼し、自分のものにしていくことになるのだろうなと、そんなことを思いました。
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「蛙の鳴き声」について

3/9/2011

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「蛙の鳴き声」は、動物譚のひとつで、雨が降ると鳴く蛙の習性を題材にしたものです。町の生活ではあまり蛙の声を意識することはありませんが、田舎に住んでいると、うるさいほどに蛙の声がするものです。以前、田んぼの真ん中の小屋に住んでいたとき、5月頃だったと思うのですが、猛烈な蛙の声を毎晩のように聞いていたものです。それがある日、ピタリと止まりました。風景には何の変化もありません。ただ、蛙の声だけが止まったのです。
おそらく、田植えを前に、除草剤の散布をしたのでしょう。突然の変化に、なにやら心底、おそろしさを感じたのを覚えています。
身近な動物、小動物が消えていくと、おはなしもだんだんとしにくくなっていくように思います。
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むかし話の残酷さについて

3/7/2011

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むかし話では、洋の東西を問わず、実にあっさりと人が死にます。いえ、人間というのはけっこうあっさりと死ぬものですよ。ただ、日常、私たちはできるだけ忌まわしい死を遠ざけておきたいと思います。だから、人が死ぬ描写が出てくると、「残酷だ」といってこれを避けようとするのでしょう。
むかし話では、そんな綺麗事は通用しません。人は、その本質に違わず、あっさりと死んでいきます。ただ、死にまつわるむごたらしい描写は、同時に省かれます。死のむごたらしさは、禁忌につながります。禁忌をしない代わりに、むごたらしさにはあえて触れません。そうすることでバランスをとるのでしょう。
そういう本質がある以上、むかし話の登場人物を殺さないように結末を変えたり、最後に仲直りさせるような改変は、本来あるべきものを歪めることだとされます。それはよくわかるのです。
けれど、やっぱり私は息子に「おはなし」を語り聞かせていた頃、簡単に死を扱うことができませんでした。たとえ悪玉であっても、「死んでしまいました」は、軽々しく口にしたくなかったのです。だから、桃太郎はいつも桃太郎が鬼ヶ島についたところで「そして桃太郎は鬼を退治して帰りました」と唐突に終わりますし、白雪姫では継母の運命は語られません。ここに書いたおはなしでも、あまり死に直接触れていないのは、やっぱりそういうのが苦手だからです。
ここは、「べきだ」論ではどうしようもありません。「むかし話では人が死ぬものだ」「おかしな改変はすべきではない」と理屈では思っても、そこは語り手である私の限界です。そこを無理に曲げてまで書いてもしかたないだろうと思うわけです。
おはなしは、時代の影響を受けないわけに生きません。正統派の民話、昔話が必要であれば、そういう文献や研究が既に立派に積み上がっています。ここでは、あくまで21世紀初頭のネット時代にあって使いやすいおはなしのネタを提供することに、自分の及ぶ範囲内で集中していこうと思います。
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「琵琶の淵」について

3/5/2011

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「琵琶の淵」は、災厄を予言によって回避するというパターンの物語です。類似のおはなしには地蔵の顔が赤くなったら津波が来るという伝承を信じて助かった年寄りの物語があります。2つのはなしの違いは、予言を受け取った当人が助かるのか、滅ぶのかというところです。
このおはなしは多くの人を助けるために自らの命を失うという悲しい話です。その自己犠牲は尊いものだと思いますが、同時にできることなら自分も一緒に助かりたいと考えるのは自然なことでしょう。琵琶法師は禁忌を守って言葉としては危機を伝えないのですが、それでも音楽で実質的に伝えてしまったのが命取りになったわけです。
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「天道さんの金の綱」について

3/3/2011

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この「天道さんの金の綱」は、「鎖」と「腐り」をかけた駄洒落だけで成り立っているようなおはなしです。けれど、「天が言葉を聞いてくれる」という前提を立てることで、笑い話ではなく、もっとシリアスな話になっています。
言葉が力を持つという日本古来の考え方に、言葉の音の持つ二重性が絡んでくるわけです。この「ことば」がテーマのおはなしの中に、言葉を喋らない幼女が登場します。これはポイントだと思ったのですが、結局、私はこの子にもセリフを与えてしまいました。なかなかうまくいかないものです。
このパターンの多くのおはなしでは山姥は死んでしまうのですが、ここでは腰を打って退散したことにしておきました。寝物語にあまり悲惨なイメージもどうかと思ったので。このあたり、子どもにはかえって面白くないかもしれません。
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「浦島太郎 」について

3/3/2011

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この「浦島太郎」は、御伽草子所収の「浦島太郎」を下敷きにしたものです。絵本なんかで流布している浦島太郎とはだいぶちがうのですが、どうやらこっちのほうが(書かれた文学としては)古い形のようです。現代語訳というのではなく、あくまで自由に書き起こしています。歌を訳しても面白くありませんから。
特に、ここでは「縁」ということを強調しました。なんとなく、それが浦島明神の縁起としてふさわしいと思ったからです。
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「おはなし一覧」のページをつくりました

3/2/2011

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エントリ一覧をうまくサイドバーに表示できないので、「おはなし一覧」のページで見やすくしました。目次のように使えると思います。短いリード文も入れたので、むしろこの方法がよかったのかなと思います。もうちょっとおはなしが増えてくれば、それなりに格好がつくことでしょう。
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「鈍と貧」について

3/2/2011

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ずいぶんむかし、縁あって立ち寄った喫茶店のマスターが言っていました。「うちはビンと棒ばっかりだよ」と。貧乏に引っ掛けたつまらないダジャレですし、そのマスターとは以後二度と会うこともなかったのですけれど、なぜか記憶にこびりついてしまっています。そういう記憶が、この土瓶を割った話に結びつているんでしょう。「祝い直し」という類型のおはなしだそうです。落語にもこういうネタはよくありますね。
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「貸し椀の淵」について

3/1/2011

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おはなしの中にも書きましたけれど、日本の「むら」いわゆる自然集落は、実に多様です。都会に住んでいる私たちは「村」というと「市町村」という単位の地方自治体を思い浮かべますが、田舎で「むら」(私は区別するために平仮名書きにします)といったら、自然村落のことです。かつては、これは「字」として公式に存在を認められていましたが、字が多くの住所表記から消え、たいていは「自治会」という括りでしか残らなくなりました。そして、自治会は、都会では「何町何丁目自治会」のようにほとんど行政的な区割りで決められます。自然村落を単位としたものとは感覚がすっかり異なってしまっています。
農村でも、全国的に「むら」と自治会はかぶっていません。結局、「むら」は、住んでいる人の感覚にしか残っていません。それでも厳然として存在しているわけです。
この「貸し椀の淵」には「竹田川」のような実在の地名を出しましたが、これは純粋に架空のおはなしで、特にどこの伝承というわけでもありません。このパターンのおはなしは中部地方に多く伝わっているそうです。
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