子どものためのおはなし
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「泣き虫の男の子」について

5/18/2015

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June 28, 2010投稿の再掲

5月連休の直前、息子のまことが転んで腕の骨を折りました。辛い経験だったろうと思いますが、最初の1、2日少し落ちこんだだけで、すぐに元気をとりもどしました。子どもの回復力、特に精神的な回復力は大したものです。

そんなこともあって、たぶん5月の半ば頃、ひさしぶりに寝る前の「おはなし」をしてやりました。実は、骨を折って半月もたつと、普通に叱られることも多くなります。この日も叱られて泣いてしまったので、それをなだめるためという意味もありました。

だから、「泣き虫の男の子」は、まことにとってちょっと辛い話にもなったはずです。そこをお説教臭くならないようにするために、医者、呪い師、坊主とのやりとりをコミカルにしました。そのおかげでまことはすっかり喜んでくれました。後半の鬼が出てくるあたりは、情景的には「こぶとりじいさん」の流用です。男の子が使者として大役を果たすというのは、名作でまことも好きな「モチモチの木」あたりの設定を借りてしまったかもしれません。

このおはなし、すぐに書き留めておこうとしたのですが、半分ほど書いたところで忙しくなって長く放置してありました。その間にまことの腕はすっかり元通りになり、以前にも増して活発に走り回っています。懲りないと言えばそうなのですが、このぐらいの元気はやはり必要なのですね、泣き虫の男の子にも。
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「青いお城」について

5/18/2015

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December 28, 2009投稿の再掲

~ 森トンカツ 泉ニンニク かコンニャク まれテンプラ ~
と歌っても、40代以上でなければ何のことかわからないでしょう。1960年代に「グループサウンズ」として一斉を風靡したブルーコメッツの代表曲「ブルーシャトウ」をもじった歌い方で、ほとんど意味もないくせに、当時の小学生なら誰でも歌っていたものです。「森と泉に囲まれて静かに眠るブルーシャトウ。あなたは僕を待っている、暗くて寂しいブルーシャトウ。きっとあなたは赤いバラの香りが苦しくて、涙をそっと流すでしょう」という歌詞も相当に意味不明なのですが、これにトンカツやらコンニャクやらが入ってくるともう徹底的なナンセンスになります。それがウケたのでしょうか。歴史の謎です。

そういう時代に小学生だった私や妻が、ふとしたはずみで「森トンカツ」と歌ったのが、小学一年生の息子のまことにウケました。そこで「ブルーシャトウ」の原曲を聞かせたら、彼は彼なりにすっかりハマってしまい、そらで歌えるようにまでなりました。この「青いお城」は、そんなまことに話して聞かせたものです。ですから、ジョークでしかありません。ちょっと他の人に見せるのはどうかなとも思ったのですが、結末をちょっと変えたシリアスバージョンで掲載しておきました。

まことに聞かせたお笑いバージョンでは、結末のところがこんなふうになります。

とっさに、旅人は老女にもらった包を投げつけました。中からトンカツが転がり出ました。犬は、うまそうな臭いにつられ、とびつきました。....旅人は急いで荷を下ろしました。袋の中からニンニクのかけらを取り出すと、それを魔物に向かって投げつけました。....村では、あの湖のほとりの城の呪いが解けたことを知って、人々が喜びました。そして、お祭り騒ぎの中で、二人はコンニャク(婚約)しました。やがて行われた二人の婚礼には、テンプラのご馳走が出たということです。

つまり、「トンカツ、ニンニク、コンニャク、テンプラ」の四題話を「ブルーシャトウ」の物語世界の中で展開してしまったのです。シリアスに、まるでグリム童話のようにおどろおどろしく中世の魔法の世界を展開していき、最後に一気に駆け抜けるように「トンカツ、ニンニク、コンニャク、テンプラ」とやったら、まことは大笑いしました。しかし、これがおもしろいと思えるためには、小学一年生の空想と1960年代のネタを同時に心の中に持っていなければなりません。一般にそれは無理な話です。ですので、このお話はどこまでいっても内輪のネタでしかありません。

シリアスバージョンの方は、単純に「ブルーシャトウ」の世界をグリム童話風にアレンジしただけなので、どうということのないものです。まあ、この先、使うこともないでしょう。まことにウケた記念にだけ、アップしておきます。
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「行かず池の話」について

5/18/2015

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November 19, 2009投稿の再掲

1ヶ月ほど前、息子のまことを寝かしつけながら、いくつかのお話がまとまってできました。「行かず池の話」もそのひとつです。簡単な話なのに、なかなか書き留められず、ようやく一昨日、文字にすることができました。中途半端に書きかけで放ってあるのは気持ちがよくないので、少しだけ、ほっとしました。

この話、フィクションではあるのですが、ある意味、現代社会では実にありそうな話でもあります。「新薬」を求める研究は、それが莫大な富に結びつくことから飽くことなく続けられています。その効能が実験室でたしかめられ、認可を経て、市場に出ます。ところが、薬というのは決して単純なものではありません。「ここを押したらこっちが引っ込む」といった直線的な因果関係だけで成立しているものではないのです。結果として、薬は人間社会全体に変化をもたらし、そして、富の基盤そのものを危うくします。

私はかつて、短期間ではあるけれど健康食品を扱う会社に勤め、そんな現場をつぶさに見てきました。そういった体験から思いついた話なので、子ども向けにしてはずいぶんと生臭いお話かもしれません。そういう意味では、あまりできのいい話ではないようにも思います。

なお、「いかず池」ほど極端ではありませんが、「探しても見つからないけれど探していないときには見つかる」ような地点は、山に登っているとたまに経験することです。「あそこで昼飯にしよう」と思って記憶にある気持ちのいい空き地を探すのですが見つからず、しかたないから他で済ませ、帰り道にその空き地を通りかかる、というような具合です。その場所がなくなったわけではないので、森を切り開けばきっと出てくるはずです。けれど、木立がなくなってしまえば、「気持ちのいい空き地」もなくなってしまうのです。そのあたりのパラドックスをおもしろいと思ってもらいたくて後半の展開を考えたのですが、なかなか難しいものですね。
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「友だちの味」について

5/18/2015

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October 07, 2009投稿の再掲

「友だちの味」は、数日前の夜、息子のまことのリクエストでつくったおはなしです。最近はストーリーを考えるのも面倒くさくなって、「おはなしをして」とせがまれても「桃太郎」でごまかすことが多いのですが(「むかしむかし、おじいさんとおばあさんが...」と話しはじめると、「もうそのお話はいい」と遮られ、「それならもう寝なさい」というように、なしくずしにおはなしから話題を逸らします)、この夜は押しきられるかたちで「むかし、小さな国にひとりの王さまが...」と始めてしまいました。しかたなしにその続きをがんばったわけです。

もっとも、話をしたときには、どう展開させていいのか、自分でもわかりませんでした。小さな国の住民がたったひとり(つまり王さまでもあれば庶民でもある)というのは十分にウケたのですが、その先の構想がありません。手がかりも何もないのです。こういうときは笑いでごまかすしかありません。そして、小学生の笑いといえば下ネタです。

たとえば、昨日もまことの友だちと出会ったら、いきなり「チンチン、オシッコ、ウンコ」というような言葉を浴びせられました。本人は悪口雑言のつもりではありません。これが面白くて笑いこけるのです。小学生とはそんなものなのでしょう。

それにこっちが便乗することもないのですが、この夜、私はその手で逃げようとしました。そこで、王さまが「友だちとはどんな味がするのかわからない」といったとき、旅人が「お尻をペランとめくり、『どうぞお舐めください』と言いました」と、やったわけです。

予想通り、まことは大笑い。おはなしは全く中途半端だったのですが、この大笑いに紛れて、「おしまい」とやりました。もちろん抗議の声は出ましたが、そこはうまく丸め込んでしまいました。「本当にこれでおしまいだから」と。

さて、そんなバカバカしい下ネタ話をここに書き残すつもりは全くなかったのです。何しろ、展開もできず、強制的にナンセンスで打ちきったお話です。過去の無数のその場限りのお話のひとつに加えられるはずでした。

ところが、よくよく考えてみたら、下ネタさえ除けば、これはこれでひとつの物語のかたちを成しています。テーマは友情です。友情というのは、そのときには意識されないものです。だから、正面から「友情って何だろう」なんて思っても、わからないものです。それがわからない王さま、それをほんのちょっぴり意識した旅人、けれど、やっぱりふたりにはそれが友情かどうか、よくわからないでしょう。

それが美しい友情に見えるのは、外側から見たときです。ふたりの笑い声を遠くから聞く人は、そこに友情があることを疑わないでしょう。

無理やりに断ち切った部分の「お尻ペラン」だけ除いて、一気にまとめ上げました。下ネタなしで子どもにウケるかどうかはわかりませんが、おはなし会のネタに使えるかもしれません。
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「十三のうなぎ」について

5/18/2015

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August 22, 2009投稿の再掲

「十三のうなぎ」は、またも息子のまことの作品です。許諾を得ずに掲載していますので、後々、本人からクレームが出るかもしれません。

夏休み、まことは4日ほど大阪の祖父母の家に滞在しました。迎えに行った帰り道、電車が十三の街を通りました。「ここが十三といって、落語にも出てくるところだよ」と話をしたら、いきなりまことがこのお話をはじめたわけです。十三にちなんだ話を即席でつくってくれたというわけです。

オリジナルといいながら、この話、まことが吸収してきたいろいろな話の組み合わせです。母親と暮らす息子の話は中国系の昔話にはよくあるパターンですし、うなぎが逃げていくのを追いかけるのは落語の「うなぎ屋」そのままです。傘が空に飛ばされるのも、雲の上の雷様の手伝いをするのも、どちらも日本の昔話にありました。雲の薄いところを踏み破るのは落語の「雷のふんどし」。竜宮城は浦島太郎のパロディで、海老を食って釣り上げられるのはこれまた落語です。

とまあ、あまりオリジナリティもないストーリーではあるのですが、この話をまことは実にリズミカルに、愉快に話してくれました。
「はあ。どうしましょうなあ」
「どうしましょうや、あらへんで」
という繰り返しが、古い形の上方漫才のように調子がよかったのです。そこで、これを再現しようと、この話もできるだけリズミカルになるように工夫しました。最後に「めでたいな」と古い万才の決まり文句を入れたのも、その雰囲気を出そうと考えたからです。とはいえ、それが成功したかどうかは、よくわかりません。

できれば見台でも叩きながら軽快に語りたいおはなしです。
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「鬼のはなし」について

5/18/2015

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July 15, 2009投稿の再掲

梅雨に入ったころ、正確に言うなら空梅雨だった六月からいよいよ本格的に雨が続きはじめたころから、気持ちがどうにものらなくなってきました。何をしても集中力が続きません。
梅雨に入って最初の雨が降ったころ、岩穴の奥から雨を眺めている鬼の情景が心に浮かびました。そこで、最初の導入シーンを書き止めたのですが、そこからさっぱり前に進まなくなりました。最終的に「鬼のはなし」としてアップできるまでに、1ヶ月近くもかかったのではないかと思います。この間、何度も書こうとして、結局書けないままに一日が過ぎるというのを繰り返しました。雨を恨めしそうに眺める鬼のイメージから、一歩も先に話が進まなかったのです。

最終的に形ができたのは、息子のまことのおかげです。夜寝る前の「おはなしをして」で、最近はうろ覚えの「モモ」をやっています。まことにつきあって図書館に行ったときに久しぶりに読み返しておもしろかったので、このミヒャエル・エンデの名作を少しずつ話して聞かせているわけです。けれど、数日前、さすがに飽きてきたのか、「別のお話しして」とのこと。ネタもないので、思い切ってこの「雨を眺める鬼」の導入シーンを話し出しました。あとは、流れに任せて進めていって、どうにか話の結末までたどりつけたのです。

まあ、苦しみながら書けなかった時期に、「男の子」を登場させようとは思っていました。男の子と鬼の友情の話にしようと、だいたい構想はできていたわけです。この男の子に、いまでいう学習障害の性格をもたせたのは、アドリブでした。ただ、そうすることで嵌め絵がピタリと嵌るように、全体の構図がうまくとれました。あとは、最近まことが見るようになったアニメの影響で、村が襲われるシーンを加えました。ちょっと安っぽかったかもしれません。

鬼は歴史における異端者であり、「障害者」は産業社会における異端者です。このおはなしの時代設定はたぶん戦国時代ですから、現代の産業社会とは大きく違います。けれど、「生産性」に対する要求は、この時代むしろ農村での方が強かったのかもしれません。そのプレッシャーが、「百姓はいそがしいものだ」という社会通念につながります(江戸時代初期の農書にそういった概念が述べられています)。そんななかで、親の手伝いもできない「男の子」は、やはり異端者です。

異端者同士は惹かれあいますが、決定的に違うのは、鬼がどこまでいっても異端者であり人間に対立する存在であるのに対し、男の子は人間社会の一部であり、「障害」を何らかの形で克服し、受け入れることで異端者でなくなっていく可能性をもっていることです。
村の危機に際して、男の子は鬼に訴えることで火急を救い、そして初めて意味のある言葉を話します。この「成長」によって、彼は遠からず社会に受け入れられていくでしょう。
一方の鬼は、どこまでいっても鬼です。人間から怖れられることが、鬼のアイデンティティなのです。ですから、異端者同士の友情は、一方が異端者でなくなることをもって終わりを告げねばなりません。これが物語の結末です。

雨のシーズンにつくっただけあって、ずいぶん暗いはなしだなあと、我ながら思います。これはちょっと、おはなし会向きではないかもしれませんね。
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「悪魔はジョージアへ」について

5/18/2015

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June 15, 2009投稿の再掲

「悪魔はジョージアへ」は、1979年にアメリカのカントリー・ロック界のチャーリー・ダニエルズ・バンドが放ったヒット曲の題名です。このおはなしは、ほとんど直接この曲から書き起こしています。ですからオリジナルとも言えないのですが、さらにさかのぼれば「悪魔との賭け」は世界各地の民話に頻出するモチーフ。チャーリー・ダニエルズ自身も「ふと思いついたまま書いたんだけど、ひょっとしたら子どものころに読んだ教科書の話だったかもしれない」と言っているそうです。出典がわからないほど普遍化したアメリカ民話で、桃太郎やわらしべ長者みたいなものかもしれません。だから、まあ、ここで使うのも問題はないでしょう。

チャーリー・ダニエルズの歌では、悪魔とジョニーの勝負が語られるだけです。木こりや鉄砲打ちは、民話によく見られる「三度の繰り返し」のパターンを踏襲するために付け加えました。また歌の中ではなぜジョニーが勝ったのか詳しい説明はありません。ジョニーが弾きはじめると、朝の情景を歌った歌詞が流れます。日本の民話でも一番鶏で鬼が逃げ出すシーンがよく見られますが、朝日の力で悪魔が負けたとも受け取れます。けれど、その割には悪魔は「うなだれて金のフィドルを差し出した」とあるように、決して一気に退散したわけではありません。

曲を味わいながら聞いていると、どうやら悪魔の腕前とジョニーの腕前に大差はなさそうです。むしろ悪魔の方が「魔物のバンド」の加勢を受けている分だけ凄みのある演奏を見せています。ではどこが違うのかといえば、悪魔のバンドは聴く人に恐怖感を与えるのですが、ジョニーの演奏は喜びを与えます。つまり、そういうことなのです。腕前ではなく、音楽の世界で悪魔はジョニーにかなわなかったわけです。

このあたりを整理して理屈に合わせるため、「悪魔は相手に合わせて強くなる。なぜなら悪魔の腕前は相手のコピーだからだ」という仕組みを考えました。そして、悪魔の音楽によってジョニーが目覚めるという構造にしました。悪魔は実際の朝日で退散したのではなく、ジョニーのフィドロが描き出す朝日にかなわなかったということです。

つまり、悪魔は競争のジャンルを間違えてしまったわけです。音楽は、人の心に感動を呼び起こし、その人を変えてしまいます。たとえ悪魔が弾いた曲でも、それがジョニーを回心させる力がありました。だから、悪魔は自ら墓穴を掘ってしまったのです。

最終的な理屈は、「人間は悪魔に勝てない。しかし、悪魔は神様には勝てない」ということにしました。自力で悪魔と勝負しようとすれば、悪魔に魂を奪われてしまいます。悪魔と勝負するのではなく、ひたすら神にすがることでのみ、人間は悪魔に勝てるわけです。こういう思想は、おそらく多くの宗教に共通するのではないでしょうか。

私は特に神信心をしているわけではありませんが、「人間、謙虚でなければいかん」という発想には共感を覚えます。そこで、アメリカ民話にふさわしくキリスト教の神さまに登場願ったわけです。この程度のことは、まあ慈悲深い神様、許してくださるでしょう。

息子のまことは、「ジョージア」とか「ジョニー」といった固有名詞に引っかかってしまったようです。外国系の話をするときの課題かもしれませんね。
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「大きな地球」について

5/18/2015

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June 05, 2009投稿の再掲

「大きな地球」と題をつけているものの、これは99%はA.トルストイの有名な「おおきなかぶ」そのままです。正確に言うと、(私の記憶している範囲内での)A.トルストイの「おおきなかぶ」の内田莉莎子氏の再話です。A.トルストイに関しては死後50年以上が経過しているので著作権上でも再録に問題はないと思うのですが、翻訳者の著作権に関してはそうもいかないでしょう。ということで、突っ込まれた困るのですが、最後のオチ1行だけの変更をパロディととしての新たな創作と認めてもらえないかなあというのが、勝手な私の考えです。

またも息子のまことなのですが、寝る前、「おもしろい話をしなければ許さん」などと言うので、とっさに小さいころ好きだった「おおきなかぶ」を話しはじめました(余談ですが、蕪は苗を植えません。種子をじかまきにして育てます。これに関してだけは、私は内田さんに文句を言いたいと常々思ってきました)。まことは意表を突かれておもしろそうに聞いていましたが、これをそのまま終わりにしたら、「ダメ! 零点! 失格!」と(最近、小学校で覚えてきた言葉で)罵られるに決まっています。そこで、最後に「やっとかぶはぬけました」とくるかわりに、「地球が抜けました」とやったら、大爆笑。これで納得して寝てくれました。

もちろんこれは、元ネタを暗記するほど知っている子どもが相手だから成り立つ話です。そういう意味でパロディの域を出ないのですが、有名な話ですから、他でも通用するかもしれません。いちどやってみたいものです。

ちなみに、原作者のトルストイは、私は「戦争と平和」のトルストイだと思っていたら、別人だそうです。SFを得意としたロシアからソビエト時代にかけての作家ということ。いままで知らずにいたのが恥ずかしいような気持ちです。
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「にづくしのお話」について

5/18/2015

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May 23, 2009投稿の再掲

韻を踏む、というほど上等なものではありません。「にづくしのお話」は「~に」で終わる2文字の単語を並べてストーリーをつくろうという遊びです。ある夜、また息子のまことが「おはなしして」。口から出まかせに、「むかしむかし、一匹のかにがおりました」とやったところで早くも行き詰まりました。苦し紛れに「~に」をいくつか続けたらウケたので、これで最後までいってしまったわけです。ですから、ストーリーそのものは特に面白みがあるわけではありません。「に」づくしも、字面で読めばそれほどおもしろくもないでしょう。これは声で聞かせてはじめておもしろみが生まれるものだと思います。

おなじ方法で、いろんな文字づくしのおはなしができそうです。困ったときの逃げ道がひとつできました。
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「ポッポコピーのポッポコプーのポッポコナー」について

5/18/2015

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May 20, 2009投稿の再掲

「ポッポコピーのポッポコプーのポッポコナー」は、夜寝る前に息子のまことが注文する「おはなしして」の中から生まれたものです。小学校に入学してからは(たぶん昼間に疲れるせいで)、ずっと寝つきがよくなりました。だから、以前のように1時間以上も「おはなしして」で責められることはなくなったのですが、先日、久しぶりにおはなしをせがまれました。「なんのお話をしてほしい?」と聞いたら、「ポッポコピーのポッポコプーのポッポコナー」というご指定。さて、どんな話にしようかと思いましたが、あまり気合も入らなかったので、「まんが日本昔話」系の「よくあるネタ」の焼きなおしでしのごうと思いました。

けれど、焼きなおしというのは案外と簡単ではないものです。途中、何度もストーリーが行き詰まりました。「こんなんでいい?」とまことに尋ねてはOKをもらいながら、ようやく結末にたどり着いたときにはホッとしたものです。

そんな話ですから書き残しておくほどのものでもないのですが、まあ、せっかくできたのだから、というところです。

女性の顔の良し悪しをネタにするのはあまりよいことではないとも思いましたが、そこは、この長者の娘の笑顔が素敵だったということで許してもらおうと思います。外見の美しさは皮一枚、ほんとうの美しさは、その人の行動に現れるものだと...

ちなみに、この「ポッポコピーのポッポコプーのポッポコナー」は、たぶん落語の寿限無の「パイポパイポ パイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」から思いついたのではないかと思いますが、そこは本人には確かめていません。奇妙なお題をいただいたものでした。
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    おはなしの作者です。ここでは、裏話とか日記とかを書いていきます。

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