琵琶という楽器はいまではめずらしいものです。ギターのようなものですね。実際、ギターのもとになった楽器がはるばる砂漠を越えて中国から日本まで伝わって、琵琶が生まれたのだそうです。むかしは、この琵琶を弾きながら物語を聞かせる人々がいたそうです。琵琶法師と呼ばれています。有名な平家物語というおはなしは、琵琶法師が語って聞かせたものなんですね。
むかしむかし、人の気配のないさみしい淵のそばで、ひとりの琵琶法師が琵琶を弾いていました。音楽をする人は、ときどき、誰かに聞かせるためにではなく、ただ奏でたいから奏でることがあるんですね。きっと、目に見えないものに向かって奏でているんでしょう。そんなときには、心が澄んで、音が冴え渡るものです。
法師は、しばらくそんなふうに、一心に奏でていました。やがて、ふと我に返ると、はにかんだ笑みを浮かべ、琵琶を袋にしまいました。
そのときです。淵がざわざわと波立ちました。風もないのにどうしたのかと不思議に思って見ていると、淵の中から大きな蛇が顔を出しました。蛇というよりは、龍のような厳かな気配をただよわせています。この川の主にちがいないと、法師は思いました。
「さても、美しい音色であった」
主はそのように言いました。そして、
「実に惜しい。このような弾き手を失うのは、実に惜しい」
と、続けました。
「なんでございましょうか」
と、法師は尋ねました。
「これは、他のものに言ってはならぬ。言えば、お前を救うことはできぬ」
と、主は答えました。
法師が腑に落ちない顔をしていると、主はこう言いました。
「誰にも言わぬのなら、お前だけは救ってやろう。実は、今夜、皆が寝静まった頃、この川をあふれさせることになっておる。これはわしの決めたことではない。もっと上の方々の定めである。多くの者が溺れるであろう。わしにそれを救うことはできぬ」
驚いている法師に、さらに主は続けました。
「だが、お前の琵琶の音を失うのは実に惜しい。だから、お前だけにはこのことを教えておく。今夜は、川のそばから離れよ。むらは水に沈むから、近寄ってはならない。八幡の祠まで登れば、そこまで水がつくことはない。今夜はそこに逃げておれ」
それだけ言うと、川の主は淵の水の中に沈んで消えてしまいました。
法師は、驚きから覚めると、慌てました。なにをさておいても、急を皆に知らせなければなりません。けれど、川の主ははっきりと言いました。「言えばお前を救うことはできぬ」と。言えば、どんな災いが襲ってくるかしれません。
法師はふらふらとむらに戻りました。皆は、何も知らずにいつもとかわらない様子です。のんびりと夕飯の支度をする煙も上がっています。ここに大水がきたら、ひとたまりもないでしょう。
法師は、むらの辻に立って、琵琶を弾きはじめました。琵琶は、法師の心の乱れを映すように、荒々しく鳴り響きました。人々は手を休めて聞き入りました。子どもたちがまわりに集まりはじめました。
ひとしきり弾き終えたあとで、急に法師は声を高くして言いました。
「みなの衆、わけは聞かんでもらいたい。今夜、八幡様の前で琵琶を弾く。たいせつなことがあるので、どうかひとり残らず、年寄りも、子どもも、ひとり残らず、集まってもらいたい」
そして、再び琵琶を弾きはじめました。
夜になりました。八幡様の境内は、むらの人で足の踏み場のないほどに埋まりました。法師は、祠の前に座って、琵琶を弾いています。ここを先途と、命がけで弾いています。その心が伝わるのか、だれもが一心に耳を傾けています。
と、いきなり地の底を揺るがすような大きな音がしました。振り返ったむら人は、おそろしい光景を目にしました。ふだんはおとなしくむらの真ん中を流れている川が、嘘のようにふくれあがっています。鉄砲水が切れたのです。どうどうと、川は恐ろしい勢いで、すべてのものを押し流していきます。
誰もがその場を動けませんでした。ただひとり、法師だけがふらふらと立ち上がりました。そして、なにかに魅入られたように、ゆっくりと川の方に近づいていきました。
むら人が気がついて引き戻そうとしたときには、もう手遅れでした。琵琶を抱えた法師は、あっという間に波に飲まれ、見えなくなってしまったのです。
鉄砲水は、ほんの一時ですっかりおさまりました。あとには、まるで嘘のように荒れ果てたむらだけが残りました。
それから、法師の姿を見た人はいません。けれど、あの法師と川の主が出会った淵のたもとに立つと、いまでもかすかに琵琶の音が聞こえることがあるそうです。そのため、この淵は琵琶の淵と呼ばれるようになったということです。
むかしむかし、人の気配のないさみしい淵のそばで、ひとりの琵琶法師が琵琶を弾いていました。音楽をする人は、ときどき、誰かに聞かせるためにではなく、ただ奏でたいから奏でることがあるんですね。きっと、目に見えないものに向かって奏でているんでしょう。そんなときには、心が澄んで、音が冴え渡るものです。
法師は、しばらくそんなふうに、一心に奏でていました。やがて、ふと我に返ると、はにかんだ笑みを浮かべ、琵琶を袋にしまいました。
そのときです。淵がざわざわと波立ちました。風もないのにどうしたのかと不思議に思って見ていると、淵の中から大きな蛇が顔を出しました。蛇というよりは、龍のような厳かな気配をただよわせています。この川の主にちがいないと、法師は思いました。
「さても、美しい音色であった」
主はそのように言いました。そして、
「実に惜しい。このような弾き手を失うのは、実に惜しい」
と、続けました。
「なんでございましょうか」
と、法師は尋ねました。
「これは、他のものに言ってはならぬ。言えば、お前を救うことはできぬ」
と、主は答えました。
法師が腑に落ちない顔をしていると、主はこう言いました。
「誰にも言わぬのなら、お前だけは救ってやろう。実は、今夜、皆が寝静まった頃、この川をあふれさせることになっておる。これはわしの決めたことではない。もっと上の方々の定めである。多くの者が溺れるであろう。わしにそれを救うことはできぬ」
驚いている法師に、さらに主は続けました。
「だが、お前の琵琶の音を失うのは実に惜しい。だから、お前だけにはこのことを教えておく。今夜は、川のそばから離れよ。むらは水に沈むから、近寄ってはならない。八幡の祠まで登れば、そこまで水がつくことはない。今夜はそこに逃げておれ」
それだけ言うと、川の主は淵の水の中に沈んで消えてしまいました。
法師は、驚きから覚めると、慌てました。なにをさておいても、急を皆に知らせなければなりません。けれど、川の主ははっきりと言いました。「言えばお前を救うことはできぬ」と。言えば、どんな災いが襲ってくるかしれません。
法師はふらふらとむらに戻りました。皆は、何も知らずにいつもとかわらない様子です。のんびりと夕飯の支度をする煙も上がっています。ここに大水がきたら、ひとたまりもないでしょう。
法師は、むらの辻に立って、琵琶を弾きはじめました。琵琶は、法師の心の乱れを映すように、荒々しく鳴り響きました。人々は手を休めて聞き入りました。子どもたちがまわりに集まりはじめました。
ひとしきり弾き終えたあとで、急に法師は声を高くして言いました。
「みなの衆、わけは聞かんでもらいたい。今夜、八幡様の前で琵琶を弾く。たいせつなことがあるので、どうかひとり残らず、年寄りも、子どもも、ひとり残らず、集まってもらいたい」
そして、再び琵琶を弾きはじめました。
夜になりました。八幡様の境内は、むらの人で足の踏み場のないほどに埋まりました。法師は、祠の前に座って、琵琶を弾いています。ここを先途と、命がけで弾いています。その心が伝わるのか、だれもが一心に耳を傾けています。
と、いきなり地の底を揺るがすような大きな音がしました。振り返ったむら人は、おそろしい光景を目にしました。ふだんはおとなしくむらの真ん中を流れている川が、嘘のようにふくれあがっています。鉄砲水が切れたのです。どうどうと、川は恐ろしい勢いで、すべてのものを押し流していきます。
誰もがその場を動けませんでした。ただひとり、法師だけがふらふらと立ち上がりました。そして、なにかに魅入られたように、ゆっくりと川の方に近づいていきました。
むら人が気がついて引き戻そうとしたときには、もう手遅れでした。琵琶を抱えた法師は、あっという間に波に飲まれ、見えなくなってしまったのです。
鉄砲水は、ほんの一時ですっかりおさまりました。あとには、まるで嘘のように荒れ果てたむらだけが残りました。
それから、法師の姿を見た人はいません。けれど、あの法師と川の主が出会った淵のたもとに立つと、いまでもかすかに琵琶の音が聞こえることがあるそうです。そのため、この淵は琵琶の淵と呼ばれるようになったということです。