宇治の川というのは、いまではダムもできておとなしいものでありますが、その昔にはずいぶんと暴れ川であったそうであります。いまでも宇治の町から少し山の方に入りますと、深くえぐられた断崖の間を川が流れているところがあります。それだけの勢い、それだけの力で水が川岸を削っておったものでありましょう。
少し川を下ったところには 京から春日に通じる街道がございます。宇治川には橋を渡してあるわけですが、この橋が水が出るたびに流れたということでございます。
京の方に有名な橋大工がおりまして、あるとき、やはり大水で橋が流れたあと、こんどはぜひに流れない橋を渡して欲しいと、これはその頃の山城の国衙からの命でございました。もちろん、橋大工というのはひとりで橋をかけるわけではございません。数多くの職人を使う棟梁なのでございます。どれだけ職人がしっかりしておりましても、棟梁がきっちりと指図をしなければ橋はできないのであります。
国衙からの言いつけでありますので、棟梁は、とにかく川の様子を見ようと一人で宇治までやってまいりました。宿に荷をほどき、先日の大水まで橋があったところまで着いたのは、もう日暮れ前のことでした。川べりに立つと、そこには橋どころか、橋桁や橋脚があったあとさえ残っておりません。ただ、街道が川岸の崖まで続いていて、そこですっぱりと途切れているばかりであります。
棟梁は、そこまで行って立ち尽くしました。目の前には渦巻く川が流れております。確かに橋をかけることはできるでしょう。けれど、水かさが増せばどこにどう懸けても流されてしまいます。あすこにかければこう流れる、こちらにかければこうきたときに弱いと、考えれば考えるほどむずかしいことがわかります。いままで何度懸けてもそのたびに流されてきたのが、よくわかります。
棟梁はじっと川の流れを見つめました。渦の巻き方があたりまえではありません。渦のできる場所がどんどん移っていくのです。これでは、どこに橋脚を下ろせばいいのかさえ、見当がつきません。渦は、あちこちに生まれ、あちこちに消えていきます。
その渦のひとつが急に大きくなり棟梁のすぐ目の前までまっすぐに進んできました。棟梁は思わず、その渦の真ん中に目を奪われました。眼のようなものが見えた気がしたのです。
もういちど目を凝らしてよく見ると、こんどは大きな口が見えました。それから牛の角のようなものが見えました。次の瞬間に、それは鬼の顔になっていました。
鬼は、棟梁をしっかり見据えると、ニカァッと笑いました。そして言いました。
「この川に橋をかけるのはやめておけ。どんだけ強い橋を懸けても、この俺様がすぐに流してくれる」
棟梁は、驚きながらもなるほどと思いました。この鬼が棲む川だから、いままで流れない橋ができなかったのであろうと、合点がいきました。
「国衙の命であるからして、それでもここに橋を懸けねばならぬのであるが」
棟梁は、悔しげにつぶやきました。
「やめておけ、やめておけ」
鬼は高笑いしました。
「人間にはこの川に橋は懸けられぬ。人間は弱いものだからな。これだけの川に橋をかけようと思うなら、もっと強くならなければならない。鬼のように。この俺のように」
そして、鬼はさみしげに笑いました。
「俺ならさしずめ、この川に流れぬ橋を三日でかけてみせる。だがな、鬼には橋などいらんのだ。橋は弱い人間のものだから」
こんどは棟梁が笑いました。
「いかな鬼でも、三日でここに橋をかけるなど、できるわけがない。世迷言を言いなさんな」
鬼は再びさみしげに笑いました。
「なに、できるさ。なんならやってやってもいい」
それからまたも高らかに笑いました。
「そうさな。お前の目玉をよこすなら、三日で橋を懸けてやろう」
棟梁は胸を張りました。
「よかろう。たとえ鬼でもそんなことができるわけはない。三日で橋をかけたら、お望み通りこの目玉を差し上げよう。その代わり、もしも三日でできなければ、二度とこの川に現れるな。そして、二度と橋を流すような悪さをするな。そう約束するなら、すぐにでもかかってもらおうじゃないか」
その瞬間、ひときわ大きく川が渦巻いたと思ったら、もう鬼の姿は消えていました。あとには、あの高らかな笑い声だけが、棟梁の耳奥に響いておりました。
はて、いまのは夢であったか、幻であったかと、棟梁はあたりを見回しました。それから、川に背を向けて、その夜の宿までとぼとぼと足を進めました。なんだか急に、ひどくくたびれてしまったのです。頭もぼんやりと痛いようでした。
さて、次の朝、棟梁はすっきりした気持ちで目が覚めました。昨日の夕方のことが嘘のように思われます。顔を洗い、口を漱ぐと、自分にできないことなどないような気持ちになってきました。なに、あれほどの激しい流れであったとしても、どこかにうまい工夫があるはずだという気がしてきます。そこで、棟梁は身支度を整えて、昨日の川べりまでやってきました。そして、目を疑いました。
なんと、そこには昨日はなかった橋脚が、川の中から突き出しているのです。
棟梁は、はじめは橋脚がそこにあるということだけで驚きました。けれど、その驚きが静まるとともに、新しい驚きがわき起こってきました。その橋脚は、実に巧みに、水の勢いを避けて並べられているのです。昨日、いくら考えても解けなかった謎が、目の前で解き明かされているのです。なるほど、こういうふうに立てれば、どんな水にも潰されない橋脚ができあがるのかと、棟梁は感心するばかりでした。そして、それを思いつけなかった自分のいたらなさを振り返って、まだまだ修行をせねばならないと省みるのでした。
そのときです。目の前の川の水が大きく渦を巻きました。はっとしてそこを見つめると、昨日と同じようにそこから眼が現れ、口が現れ、角が現れて、あの鬼が勝ち誇ったように笑いはじめました。
「どうだ。これで目玉をよこす気になったか」
棟梁は鬼の目をぐっと睨むと、むきになったように言いました。
「脚だけ下ろしても、橋ができたことにはなるまい」
そうなのです。確かに橋脚は巧みに流れの強いところを避けて並んでいます。けれど、それだけに、その上に桁を渡していくのが難しいのです。特に川の真ん中のところでは、橋脚から橋脚までが遠く、それだけの桁を渡したら、たわんでとてももたないでしょう。かといって支柱を通したら、大水のときに流されます。棟梁は、この橋脚の弱点を見抜いていたのでした。
鬼は、ふんっと笑いました。
「明日も来い。いいものを見せてやろう」
そして、気がついたときには、ただ滔々と流れる川の水がそこにあるだけでした。
次の朝、棟梁が川岸まで行ってみると、昨日の橋脚の上に橋桁がかかっています。川の真ん中のいちばん遠いところには、欄干まで出来ています。けれど、棟梁にははっきりとわかりました。あれは手すりのような欄干ではありません。三角形に頑丈な材で組み上げて、橋桁を上から支えるようにしてあるのです。驚きです。こんなふうに橋桁を組み上げる方法を、棟梁はいままで見たことも聞いたこともありませんでした。なるほど、これなら大水がきても、橋桁に水の力はかかりません。実に巧みな答えです。
棟梁がこの工夫を感心して眺めているところに、また渦が巻いて、あの鬼が現れました。
「どうだ、これは人間にはできんだろう」
棟梁は、感心しきって答えました。
「ああ、これは思いつかなかった。だれも思いつかないだろう。何十年も橋大工をやってきて、これは初めて見た」
鬼は嬉しそうにニカニカ笑いました。
「ああ、人間なんてのはな、大きなことを言っても、何も知らんのだ。どんなふうに橋をかけたらいいのか知らないだけじゃない。もっと簡単なことでさえ知らない」
棟梁は、うなづくしかありませんでした。
「自分が知らないことさえ知らない。おれの名前さえ知らないだろう」
鬼は、自分の冗談が気に入ったようで、ひとしきり笑い声を立てました。それから勝ち誇ったように言いました。
「どうだ、これで目玉を渡す気になったか」
棟梁は力なく頭を振りました。
「負けたよ」
「じゃあ、いますぐ目玉をよこすか」
棟梁は、残念そうに橋を見ました。
「いや、この橋ができあがった姿を一目見たい」
鬼は、棟梁のしんみりした声につられたように、声の調子を落としました。
「そうかいそうかい。じゃあ、明日まではとらないでやろう。約束は三日のうちだし、それにまだ仕上げが残っているものな。だが、もうできたも同然じゃないか」
「それでもなあ。橋というものは、人が渡れるようになってはじめてできたっていえるもんだ。人が喜んで渡って行くところを、やっぱり見たいもんだよ」
「そうかそうか」
鬼は親しげに言いました。
「お前の目玉は、楽しみにしてるやつがいるんでなあ。とるには忍びないが、明日にはやっぱりもらうことにするよ。それまでにはちゃんときれいに仕上げておく。それを見たら、よこすんだよ」
「ああ」
棟梁は、力なく言いました。
「わるいな」
鬼は、ちょっと寂しそうな声になりました。それから、こんなふうに付け加えました。
「そうだなあ。じゃあ、たとえばだ。もしもおれの名前を言い当てたら、おまえの目玉はなしにしてやろう。うん、そうしてやってもいい。だが、それも明日までのことさ」
そう言い残して、鬼はまた消えてしまいました。
しばらくの間、棟梁はぼんやりしていました。すばらしい技を見て気持ちが高ぶったせいでしょう、まるで考えがまとまりませんでした。あそこに橋の脚をおくことは、それはそれで気がつかなかった信じられない知恵でした。けれど、そのためには橋桁をどうするかという難題があります。それを、こんなふうに簡単に解いてしまった鬼の技には、感心しないわけにはいきません。できることなら、自分もあんな棟梁の下で働きたいものだ。いや、自分もあんな棟梁にいつかはなってみたいものだと、そんなことも思います。これだけの技を受け継ぐことができれば、もっともっと素晴らしい仕事ができるにちがいありません。
そんなふうにあてもない考えにふけっていた棟梁は、はっと気がつきました。明日になれば、自分は目玉を失うのです。目が見えなくなってしまっては、これから先の仕事もないのです。棟梁は、急に怖くなりました。川に背を向けて走り出しました。とにかく川のそばから逃げ出したくなりました。
あてもなく無我夢中で走って、気がつくと、棟梁は山の中にいました。自分がどこにいるのかもわかりません。ただ、道の続く方に走ってきたのです。道は曲がりくねって下りにかかりました。下っていく坂の向こうに、川が光っているのが見えました。山の中に入っていったと思った道は、実は川からそれほど離れずに、ただ上流に向かっていただけらしいのです。あわてて棟梁は、道を戻りかけました。そして、今度こそ川とは反対の方向にあると思う枝道に飛び込みました。そして、そこをどんどん走っていきました。
どのくらいの時間がたったのでしょう。棟梁は、いまが朝なのか昼なのか、それとももう日が暮れてしまったのかさえわかりませんでした。森の中は薄暗く、日も差してきません。道はいつの間にか細くなり、けもの道のようになって、消えてしまいました。いまはもう、こちらと思う方に木の枝を踏み分け、藪を払いながら進むばかりです。このまま迷い続けてどこにも出られなくなってしまったら、それはそれでかまわないとさえ棟梁は思いました。自分でどこにいるかわからなければ、鬼も自分を見つけられないような、そんな気がしました。目玉を取られてしまうような恐ろしい目にあうぐらいなら、このまま山の中にまぎれて失せてしまいたいとさえ思いました。
そのとき、なにか歌うような声が聞こえました。棟梁は驚いて立ち止まりました。そうっと木の影に隠れてうかがうと、森の奥のほうで影が動きます。目をこらしているうちに、またさっきの歌声が聞こえてきました。
「ねんねんこ、ねんねんこ
この子は よう泣く ねんねんこ
ばばにおぶさり ねんねんこ」
棟梁は、ほっとしました。どこか村里にでも出たのであろうと思いました。村はずれで年寄りが孫の子守でもしている様子です。驚かさないようにそっと木の影から出ようとして、棟梁はさっきよりももっと驚きました。というのは、かがみこんでわらびでもとっているらしいその婆様の額に、まぎれもない角が見えたからです。
婆様は、棟梁に気がつかず、歌い続けました。
「ねんねんこ、ねんねんこ
この子の父様、お仕事じゃ
川で流れぬ橋かける
ねんねんこ、ねんねんこ
この子の母様、どこいった
乳がないので さみしかろ
ねんねんこ、ねんねんこ
明日には父様、もってくる
目玉をしゃぶって ねんねんこ」
棟梁は、その歌を聞いて身体がガタガタ震えました。脂汗が流れました。目玉を取るというのは、冗談でも何でもなかったのです。あの鬼は、自分の息子のために、この目玉を与えようというのです。
「ねんねんこ、ねんねんこ
坊やは父様のあとつぎじゃ
あの鬼六の あとつぎじゃ
鬼六帰る あしたまで
坊やはばばと 留守番じゃ
ねんねんこ、ねんねんこ」
いつまでも続くその歌声を振り払うように、棟梁は無我夢中で走りました。体中からなにかが抜け落ちていくような、自分が虚ろになっていくような、そんなふうに感じながら走りました。石につまづき、木の根に足をとられながらも走りました。草で滑り、水たまりの泥をかぶりながら、あてもなく、走りました。走ってどうなるわけでもないとわかりながら、走らずにいられませんでした。走って、走って、もう動けないほどへとへとになって、棟梁は道の真ん中に倒れました。頭の中では、さっきの子守歌が響き続けていました。
どのくらい時が過ぎたでしょう。鍬を担いだお百姓が通りかかりました。どうやら、森を抜けて村はずれまできていたようです。お百姓は棟梁に水を一杯汲んでくれました。そして、日暮れの道を棟梁の宿まで案内してくれました。
さて、いよいよ橋のできあがる日です。棟梁は、気持ちをとり直して顔を洗いました。身だしなみを整えると、いつもの川べりまでやって来ました。美しい橋が見えます。がっしりとしていて、それでいてしなやかに美しい姿です。鬼は細かな細工まで手を抜きませんでした。真鍮の擬宝珠が朝日に光ります。旅人が、さっそく渡っていくのが見えます。村人が橋のたもとに集まって、口々に驚きを語り合っています。たった三日で橋がかかったことが信じられないのでしょう。
けれど、本当の驚きは村人にはわからないのだと、棟梁は思います。この橋にこめられたさまざまな工夫と技をわかるのは、自分しかいないと思うのです。この橋なら、どんな大水にも流されず、何百年も役目を果たすでしょう。棟梁は、素直に鬼を褒め讃えたい気持ちになりました。
そのときです。目の前の川の流れの渦が大きくなると、鬼が現れました。棟梁は、はっとしました。昨日のあの恐ろしさがよみがえってきたのです。あの子守唄が頭の中に響きはじめました。目玉をとられてしまうのです。赤ん坊のおもちゃにするために、この鬼六という化け物が、自分の目玉を奪ってしまうのです。
「どうだ」
鬼は得意げに言いました。
「すばらしい橋だ」
棟梁は、心をこめて答えました。それで十分でした。鬼は満足気に笑いました。
「それでは約束だ。目玉をもらっていこう」
棟梁は、なんともいえない気持ちになりました。確かにこの橋は、自分の目玉以上の値打ちがある。けれど、この先、目玉を失わずに仕事を続けることさえできれば、この橋から学んだことを、もっともっと素晴らしい仕事に活かしていけるはずです。なんとかならないものでしょうか。
棟梁の心に、一筋の光が差した気がしました。
「待て。待ってくれ。お前様は、お前様の名前を当てたら目玉は許してくれると、そう言うたではないか。どうか当てさせてもらいたい」
鬼は大笑いしました。
「よかろう。だがお遊びは三度までだ。おれもこのあと大事な用があるのでな。待たせておるのでゆっくりはしておれん。さあ、当ててみろ」
「さて、鬼といえば宇羅であろう」
「なんの、なんの」
「であれば、茨木童子であろう」
「なんの、なんの」
棟梁はここで腹の底に力を込めました。そして一言、言い放ちました。
「鬼六」
鬼は、あっと叫ぶと、悲しげな顔を見せました。それも瞬き一つするほどの間で、たちまち大きな渦が巻き起こり、鬼はその中に消えてしまいました。あとには、何事もなかったかのように、川がゆっくり流れていたそうです。
棟梁は、われにかえってあたりを見回しました。だれも、自分と鬼のやりとりに気がついていた者はいないようです。人々は、橋の上で新しい橋を喜び合っています。川べりに佇んでいる棟梁のことなど、だれも気に留めてはいないようです。
棟梁は小さく微笑むと、宇治の町を後にしました。さて、それから後、この棟梁はあちこちの難所でいくつも美しい橋をかけたということです。鬼のかけた橋は何百年も流れずに人々の暮らしを支えたということでありますが、激しい戦があった折に焼け落ちたそうでございます。いくら鬼でも、人の浅はかさまで防ぐ技はなかったのでありましょうな。
少し川を下ったところには 京から春日に通じる街道がございます。宇治川には橋を渡してあるわけですが、この橋が水が出るたびに流れたということでございます。
京の方に有名な橋大工がおりまして、あるとき、やはり大水で橋が流れたあと、こんどはぜひに流れない橋を渡して欲しいと、これはその頃の山城の国衙からの命でございました。もちろん、橋大工というのはひとりで橋をかけるわけではございません。数多くの職人を使う棟梁なのでございます。どれだけ職人がしっかりしておりましても、棟梁がきっちりと指図をしなければ橋はできないのであります。
国衙からの言いつけでありますので、棟梁は、とにかく川の様子を見ようと一人で宇治までやってまいりました。宿に荷をほどき、先日の大水まで橋があったところまで着いたのは、もう日暮れ前のことでした。川べりに立つと、そこには橋どころか、橋桁や橋脚があったあとさえ残っておりません。ただ、街道が川岸の崖まで続いていて、そこですっぱりと途切れているばかりであります。
棟梁は、そこまで行って立ち尽くしました。目の前には渦巻く川が流れております。確かに橋をかけることはできるでしょう。けれど、水かさが増せばどこにどう懸けても流されてしまいます。あすこにかければこう流れる、こちらにかければこうきたときに弱いと、考えれば考えるほどむずかしいことがわかります。いままで何度懸けてもそのたびに流されてきたのが、よくわかります。
棟梁はじっと川の流れを見つめました。渦の巻き方があたりまえではありません。渦のできる場所がどんどん移っていくのです。これでは、どこに橋脚を下ろせばいいのかさえ、見当がつきません。渦は、あちこちに生まれ、あちこちに消えていきます。
その渦のひとつが急に大きくなり棟梁のすぐ目の前までまっすぐに進んできました。棟梁は思わず、その渦の真ん中に目を奪われました。眼のようなものが見えた気がしたのです。
もういちど目を凝らしてよく見ると、こんどは大きな口が見えました。それから牛の角のようなものが見えました。次の瞬間に、それは鬼の顔になっていました。
鬼は、棟梁をしっかり見据えると、ニカァッと笑いました。そして言いました。
「この川に橋をかけるのはやめておけ。どんだけ強い橋を懸けても、この俺様がすぐに流してくれる」
棟梁は、驚きながらもなるほどと思いました。この鬼が棲む川だから、いままで流れない橋ができなかったのであろうと、合点がいきました。
「国衙の命であるからして、それでもここに橋を懸けねばならぬのであるが」
棟梁は、悔しげにつぶやきました。
「やめておけ、やめておけ」
鬼は高笑いしました。
「人間にはこの川に橋は懸けられぬ。人間は弱いものだからな。これだけの川に橋をかけようと思うなら、もっと強くならなければならない。鬼のように。この俺のように」
そして、鬼はさみしげに笑いました。
「俺ならさしずめ、この川に流れぬ橋を三日でかけてみせる。だがな、鬼には橋などいらんのだ。橋は弱い人間のものだから」
こんどは棟梁が笑いました。
「いかな鬼でも、三日でここに橋をかけるなど、できるわけがない。世迷言を言いなさんな」
鬼は再びさみしげに笑いました。
「なに、できるさ。なんならやってやってもいい」
それからまたも高らかに笑いました。
「そうさな。お前の目玉をよこすなら、三日で橋を懸けてやろう」
棟梁は胸を張りました。
「よかろう。たとえ鬼でもそんなことができるわけはない。三日で橋をかけたら、お望み通りこの目玉を差し上げよう。その代わり、もしも三日でできなければ、二度とこの川に現れるな。そして、二度と橋を流すような悪さをするな。そう約束するなら、すぐにでもかかってもらおうじゃないか」
その瞬間、ひときわ大きく川が渦巻いたと思ったら、もう鬼の姿は消えていました。あとには、あの高らかな笑い声だけが、棟梁の耳奥に響いておりました。
はて、いまのは夢であったか、幻であったかと、棟梁はあたりを見回しました。それから、川に背を向けて、その夜の宿までとぼとぼと足を進めました。なんだか急に、ひどくくたびれてしまったのです。頭もぼんやりと痛いようでした。
さて、次の朝、棟梁はすっきりした気持ちで目が覚めました。昨日の夕方のことが嘘のように思われます。顔を洗い、口を漱ぐと、自分にできないことなどないような気持ちになってきました。なに、あれほどの激しい流れであったとしても、どこかにうまい工夫があるはずだという気がしてきます。そこで、棟梁は身支度を整えて、昨日の川べりまでやってきました。そして、目を疑いました。
なんと、そこには昨日はなかった橋脚が、川の中から突き出しているのです。
棟梁は、はじめは橋脚がそこにあるということだけで驚きました。けれど、その驚きが静まるとともに、新しい驚きがわき起こってきました。その橋脚は、実に巧みに、水の勢いを避けて並べられているのです。昨日、いくら考えても解けなかった謎が、目の前で解き明かされているのです。なるほど、こういうふうに立てれば、どんな水にも潰されない橋脚ができあがるのかと、棟梁は感心するばかりでした。そして、それを思いつけなかった自分のいたらなさを振り返って、まだまだ修行をせねばならないと省みるのでした。
そのときです。目の前の川の水が大きく渦を巻きました。はっとしてそこを見つめると、昨日と同じようにそこから眼が現れ、口が現れ、角が現れて、あの鬼が勝ち誇ったように笑いはじめました。
「どうだ。これで目玉をよこす気になったか」
棟梁は鬼の目をぐっと睨むと、むきになったように言いました。
「脚だけ下ろしても、橋ができたことにはなるまい」
そうなのです。確かに橋脚は巧みに流れの強いところを避けて並んでいます。けれど、それだけに、その上に桁を渡していくのが難しいのです。特に川の真ん中のところでは、橋脚から橋脚までが遠く、それだけの桁を渡したら、たわんでとてももたないでしょう。かといって支柱を通したら、大水のときに流されます。棟梁は、この橋脚の弱点を見抜いていたのでした。
鬼は、ふんっと笑いました。
「明日も来い。いいものを見せてやろう」
そして、気がついたときには、ただ滔々と流れる川の水がそこにあるだけでした。
次の朝、棟梁が川岸まで行ってみると、昨日の橋脚の上に橋桁がかかっています。川の真ん中のいちばん遠いところには、欄干まで出来ています。けれど、棟梁にははっきりとわかりました。あれは手すりのような欄干ではありません。三角形に頑丈な材で組み上げて、橋桁を上から支えるようにしてあるのです。驚きです。こんなふうに橋桁を組み上げる方法を、棟梁はいままで見たことも聞いたこともありませんでした。なるほど、これなら大水がきても、橋桁に水の力はかかりません。実に巧みな答えです。
棟梁がこの工夫を感心して眺めているところに、また渦が巻いて、あの鬼が現れました。
「どうだ、これは人間にはできんだろう」
棟梁は、感心しきって答えました。
「ああ、これは思いつかなかった。だれも思いつかないだろう。何十年も橋大工をやってきて、これは初めて見た」
鬼は嬉しそうにニカニカ笑いました。
「ああ、人間なんてのはな、大きなことを言っても、何も知らんのだ。どんなふうに橋をかけたらいいのか知らないだけじゃない。もっと簡単なことでさえ知らない」
棟梁は、うなづくしかありませんでした。
「自分が知らないことさえ知らない。おれの名前さえ知らないだろう」
鬼は、自分の冗談が気に入ったようで、ひとしきり笑い声を立てました。それから勝ち誇ったように言いました。
「どうだ、これで目玉を渡す気になったか」
棟梁は力なく頭を振りました。
「負けたよ」
「じゃあ、いますぐ目玉をよこすか」
棟梁は、残念そうに橋を見ました。
「いや、この橋ができあがった姿を一目見たい」
鬼は、棟梁のしんみりした声につられたように、声の調子を落としました。
「そうかいそうかい。じゃあ、明日まではとらないでやろう。約束は三日のうちだし、それにまだ仕上げが残っているものな。だが、もうできたも同然じゃないか」
「それでもなあ。橋というものは、人が渡れるようになってはじめてできたっていえるもんだ。人が喜んで渡って行くところを、やっぱり見たいもんだよ」
「そうかそうか」
鬼は親しげに言いました。
「お前の目玉は、楽しみにしてるやつがいるんでなあ。とるには忍びないが、明日にはやっぱりもらうことにするよ。それまでにはちゃんときれいに仕上げておく。それを見たら、よこすんだよ」
「ああ」
棟梁は、力なく言いました。
「わるいな」
鬼は、ちょっと寂しそうな声になりました。それから、こんなふうに付け加えました。
「そうだなあ。じゃあ、たとえばだ。もしもおれの名前を言い当てたら、おまえの目玉はなしにしてやろう。うん、そうしてやってもいい。だが、それも明日までのことさ」
そう言い残して、鬼はまた消えてしまいました。
しばらくの間、棟梁はぼんやりしていました。すばらしい技を見て気持ちが高ぶったせいでしょう、まるで考えがまとまりませんでした。あそこに橋の脚をおくことは、それはそれで気がつかなかった信じられない知恵でした。けれど、そのためには橋桁をどうするかという難題があります。それを、こんなふうに簡単に解いてしまった鬼の技には、感心しないわけにはいきません。できることなら、自分もあんな棟梁の下で働きたいものだ。いや、自分もあんな棟梁にいつかはなってみたいものだと、そんなことも思います。これだけの技を受け継ぐことができれば、もっともっと素晴らしい仕事ができるにちがいありません。
そんなふうにあてもない考えにふけっていた棟梁は、はっと気がつきました。明日になれば、自分は目玉を失うのです。目が見えなくなってしまっては、これから先の仕事もないのです。棟梁は、急に怖くなりました。川に背を向けて走り出しました。とにかく川のそばから逃げ出したくなりました。
あてもなく無我夢中で走って、気がつくと、棟梁は山の中にいました。自分がどこにいるのかもわかりません。ただ、道の続く方に走ってきたのです。道は曲がりくねって下りにかかりました。下っていく坂の向こうに、川が光っているのが見えました。山の中に入っていったと思った道は、実は川からそれほど離れずに、ただ上流に向かっていただけらしいのです。あわてて棟梁は、道を戻りかけました。そして、今度こそ川とは反対の方向にあると思う枝道に飛び込みました。そして、そこをどんどん走っていきました。
どのくらいの時間がたったのでしょう。棟梁は、いまが朝なのか昼なのか、それとももう日が暮れてしまったのかさえわかりませんでした。森の中は薄暗く、日も差してきません。道はいつの間にか細くなり、けもの道のようになって、消えてしまいました。いまはもう、こちらと思う方に木の枝を踏み分け、藪を払いながら進むばかりです。このまま迷い続けてどこにも出られなくなってしまったら、それはそれでかまわないとさえ棟梁は思いました。自分でどこにいるかわからなければ、鬼も自分を見つけられないような、そんな気がしました。目玉を取られてしまうような恐ろしい目にあうぐらいなら、このまま山の中にまぎれて失せてしまいたいとさえ思いました。
そのとき、なにか歌うような声が聞こえました。棟梁は驚いて立ち止まりました。そうっと木の影に隠れてうかがうと、森の奥のほうで影が動きます。目をこらしているうちに、またさっきの歌声が聞こえてきました。
「ねんねんこ、ねんねんこ
この子は よう泣く ねんねんこ
ばばにおぶさり ねんねんこ」
棟梁は、ほっとしました。どこか村里にでも出たのであろうと思いました。村はずれで年寄りが孫の子守でもしている様子です。驚かさないようにそっと木の影から出ようとして、棟梁はさっきよりももっと驚きました。というのは、かがみこんでわらびでもとっているらしいその婆様の額に、まぎれもない角が見えたからです。
婆様は、棟梁に気がつかず、歌い続けました。
「ねんねんこ、ねんねんこ
この子の父様、お仕事じゃ
川で流れぬ橋かける
ねんねんこ、ねんねんこ
この子の母様、どこいった
乳がないので さみしかろ
ねんねんこ、ねんねんこ
明日には父様、もってくる
目玉をしゃぶって ねんねんこ」
棟梁は、その歌を聞いて身体がガタガタ震えました。脂汗が流れました。目玉を取るというのは、冗談でも何でもなかったのです。あの鬼は、自分の息子のために、この目玉を与えようというのです。
「ねんねんこ、ねんねんこ
坊やは父様のあとつぎじゃ
あの鬼六の あとつぎじゃ
鬼六帰る あしたまで
坊やはばばと 留守番じゃ
ねんねんこ、ねんねんこ」
いつまでも続くその歌声を振り払うように、棟梁は無我夢中で走りました。体中からなにかが抜け落ちていくような、自分が虚ろになっていくような、そんなふうに感じながら走りました。石につまづき、木の根に足をとられながらも走りました。草で滑り、水たまりの泥をかぶりながら、あてもなく、走りました。走ってどうなるわけでもないとわかりながら、走らずにいられませんでした。走って、走って、もう動けないほどへとへとになって、棟梁は道の真ん中に倒れました。頭の中では、さっきの子守歌が響き続けていました。
どのくらい時が過ぎたでしょう。鍬を担いだお百姓が通りかかりました。どうやら、森を抜けて村はずれまできていたようです。お百姓は棟梁に水を一杯汲んでくれました。そして、日暮れの道を棟梁の宿まで案内してくれました。
さて、いよいよ橋のできあがる日です。棟梁は、気持ちをとり直して顔を洗いました。身だしなみを整えると、いつもの川べりまでやって来ました。美しい橋が見えます。がっしりとしていて、それでいてしなやかに美しい姿です。鬼は細かな細工まで手を抜きませんでした。真鍮の擬宝珠が朝日に光ります。旅人が、さっそく渡っていくのが見えます。村人が橋のたもとに集まって、口々に驚きを語り合っています。たった三日で橋がかかったことが信じられないのでしょう。
けれど、本当の驚きは村人にはわからないのだと、棟梁は思います。この橋にこめられたさまざまな工夫と技をわかるのは、自分しかいないと思うのです。この橋なら、どんな大水にも流されず、何百年も役目を果たすでしょう。棟梁は、素直に鬼を褒め讃えたい気持ちになりました。
そのときです。目の前の川の流れの渦が大きくなると、鬼が現れました。棟梁は、はっとしました。昨日のあの恐ろしさがよみがえってきたのです。あの子守唄が頭の中に響きはじめました。目玉をとられてしまうのです。赤ん坊のおもちゃにするために、この鬼六という化け物が、自分の目玉を奪ってしまうのです。
「どうだ」
鬼は得意げに言いました。
「すばらしい橋だ」
棟梁は、心をこめて答えました。それで十分でした。鬼は満足気に笑いました。
「それでは約束だ。目玉をもらっていこう」
棟梁は、なんともいえない気持ちになりました。確かにこの橋は、自分の目玉以上の値打ちがある。けれど、この先、目玉を失わずに仕事を続けることさえできれば、この橋から学んだことを、もっともっと素晴らしい仕事に活かしていけるはずです。なんとかならないものでしょうか。
棟梁の心に、一筋の光が差した気がしました。
「待て。待ってくれ。お前様は、お前様の名前を当てたら目玉は許してくれると、そう言うたではないか。どうか当てさせてもらいたい」
鬼は大笑いしました。
「よかろう。だがお遊びは三度までだ。おれもこのあと大事な用があるのでな。待たせておるのでゆっくりはしておれん。さあ、当ててみろ」
「さて、鬼といえば宇羅であろう」
「なんの、なんの」
「であれば、茨木童子であろう」
「なんの、なんの」
棟梁はここで腹の底に力を込めました。そして一言、言い放ちました。
「鬼六」
鬼は、あっと叫ぶと、悲しげな顔を見せました。それも瞬き一つするほどの間で、たちまち大きな渦が巻き起こり、鬼はその中に消えてしまいました。あとには、何事もなかったかのように、川がゆっくり流れていたそうです。
棟梁は、われにかえってあたりを見回しました。だれも、自分と鬼のやりとりに気がついていた者はいないようです。人々は、橋の上で新しい橋を喜び合っています。川べりに佇んでいる棟梁のことなど、だれも気に留めてはいないようです。
棟梁は小さく微笑むと、宇治の町を後にしました。さて、それから後、この棟梁はあちこちの難所でいくつも美しい橋をかけたということです。鬼のかけた橋は何百年も流れずに人々の暮らしを支えたということでありますが、激しい戦があった折に焼け落ちたそうでございます。いくら鬼でも、人の浅はかさまで防ぐ技はなかったのでありましょうな。