いま、鉄道の駅があるところからちょっと山の方に入ったところに二股というむらがある。その名のとおり、川が大きく二つに分かれたところで、むかしは旅人がひと休みしていくところでもあった。その頃は、峠を越えて行商やら巡礼やらの旅人が、この谷にはひっきりなしにやってきたものである。そして、たいていは、のんびりした広い川原でひと休みしていく。
ある夏の暑い日のことであったが、やはり旅人が一人、この二股にやってきた。日陰のない川原があまりに暑く感じたので、向こうを見ると、下手の方にこんもりと茂みがある。行ってみると、そこは両岸にせり出した崖の上から大きな木が枝をさしかけていて、いい具合に木陰をつくっている。川は淵になっていてその上を爽やかな風が吹いてくる。旅人は、大きく息をついた。荷物を解き、顔でも洗おうと淵の水に近寄った。
そのときである。旅人は声を聞いた。
「もし、そこのお方」
顔を上げてあたりを見回したが、だれもいる様子がない。気のせいかと思ってもう一度かがみこむと、またも聞こえる。
「そこのお方に、お頼みがあります」
旅人は、またあたりを見回した。夏の日差しが遠くの川の面で光っているばかりである。やはり気のせいらしいと、かがみこんだとき、今度はまちがいなく聞こえた。
「こちらでございますよ」
旅人は、まっすぐに声のする方を見た。それは、川の中だった。足下の深い淵の水の中をのぞきこむと、そこになにか顔らしいものが見えた。
「水の中から失礼いたしましたが、私はあまり長いこと水から出ますと干上がってしまうものですからね。特にこんな暑い日の日中には」
そう言いながら、顔はゆらゆらと深いところから上がってきて、やがてぽっかりと水面に出てきた。青っぽいような緑がかったような、痩せた貧相な顔である。河童というものにちがいないと、旅人は心に決めた。
「そんな暑い日に、何用があるか」
「はいはい。その暑いので、お願いがあるのでございます。実は私はこの先、二里ばかり行きましたところの大淵に妹がおりましてなあ。常には行き来をするのでございますが、この暑さで途中の川瀬が干上がっておりまして、もうずいぶんと行かれないのでございます。そこで、達者でおることを妹に知らせたく、ここにこのとおり手紙を書きましたので、どうか届けてやっていただけないかと、このようにお願いする次第でございます」
旅人は気味悪く思ったが、行く道筋でもあることであるし、化物に怯えて断ったとあっては人聞きが悪い。邪険なことをして祟りがあっても嫌だと思ったから、涼しい顔で、「よかろう」と答えた。
「それでは、こちらをお願いいたします。大淵の傍まで行って、二股からの使いだと、このようにおっしゃっていただければ、妹が出てきて受け取るはずでございます」
河童はそう言って、一枚の紙を差し出した。真っ白で、何も書いていない紙である。
「これが、手紙か」
旅人は、小馬鹿にしたようにつぶやいた。
「はい、これが私たちの手紙でございます。これで私の無事がわかるのでございます」
「河童の考えていることはわからんな」
旅人はだれに言うともなくそう言って、手紙を受け取った。
大淵というのは、いまの鉄道の駅のあるあたりから下の方にしばらく行ったところにある、両岸の迫ったあたりのことだ。ここに行く道はいまとだいたい同じだからわかると思うが、途中に楞厳寺というお寺がある。この寺の前を旅人が通りかかった。そのときたまたま、寺の和尚が山門の前を掃いていたのが運がよかった。
旅人は、小さく目礼して和尚の前を通りすぎようとした。和尚も何気ない様子で道を掃いておったが、ふと顔をあげると、こう言った。
「待ちなさい。ちょっと気になる相が出ておる」
旅人は、怪訝な顔で振り向いた。
「なにか」
「いや、そういうことではござらん。お前様、なにか大病でもなさっておられるか」
「いえ、このとおり元気で」
旅人は落ち着かない笑いを浮かべた。
「なにかこれから危ない用でも果たされるか」
「いえ、商売の話をつけに行くだけです」
「それではなにか変わったこと、おかしなことでもなかったか」
「いえ、いつものように峠を越えてまいりましたが」
と、ここまで話して、旅人は思い当たった。
「そういえば、二股で奇怪な化物に会いましてなあ」
そして、河童から手紙を託された一部始終を説明した。
「ふむ。その手紙がどうも気になる。見せていただけまいか」
和尚がそう言うのに、旅人は高笑いをした。
「それがなんともはや、何も書いていない白紙でありましてなあ」
そう言いながら取り出した紙を和尚はしばらくじっと眺めていたが、やがてふむとうなずくと、つっと山門に入った。旅人も続いて入る。和尚は手水の柄杓をとると、なにか口の中で経文を唱え、その水を紙にさっとかけた。みるみるうちに、紙には文字が現れた。
「河童の手紙、読んでみなされ」
と和尚が言う。旅人はあまりの不思議に我を忘れていたが、促されるままにそれを読んだ。
手紙は、河童が言ったとおり、日照りでしばらく会えないがお互いに元気でいようというようなとりとめのない挨拶が書いてある。そこはいい。旅人が凍りついたのは、最後の文句だった。
「この手紙を届けた者、せっかくだから取って食え」
旅人は、そう読んで、和尚の顔を見た。和尚は、こくりとうなずいた。
「これは、このままではいかんな」
和尚はそう言うと、突然、いたずらっぽく笑った。
「それではひとつ、災い転じて福となす業といこう」
そして、和尚は袂から矢立と筆を取り出すと、さっきの行を黒く塗りつぶし、その脇に次のように書き足した。
「この手紙を届けた者、褒美として宝を与えるべし」
そしてなにやら経文を唱えると、またもさっきと同じように柄杓の水をかけた。すると、和尚の書いた文字はたちまち消えて、もとのように白い紙が残った。
旅人は、この手紙をもって大淵に向かった。河童に言われたとおりに声をかけると、やはり青い顔をした河童が現れた。河童は手紙を読み終えると、旅人にしばらく待つように言ってから、水底から石臼をひとつ持ってきた。この石臼が旅人にどのような福をもたらしたのか、その話はまた今度することにしよう。
ある夏の暑い日のことであったが、やはり旅人が一人、この二股にやってきた。日陰のない川原があまりに暑く感じたので、向こうを見ると、下手の方にこんもりと茂みがある。行ってみると、そこは両岸にせり出した崖の上から大きな木が枝をさしかけていて、いい具合に木陰をつくっている。川は淵になっていてその上を爽やかな風が吹いてくる。旅人は、大きく息をついた。荷物を解き、顔でも洗おうと淵の水に近寄った。
そのときである。旅人は声を聞いた。
「もし、そこのお方」
顔を上げてあたりを見回したが、だれもいる様子がない。気のせいかと思ってもう一度かがみこむと、またも聞こえる。
「そこのお方に、お頼みがあります」
旅人は、またあたりを見回した。夏の日差しが遠くの川の面で光っているばかりである。やはり気のせいらしいと、かがみこんだとき、今度はまちがいなく聞こえた。
「こちらでございますよ」
旅人は、まっすぐに声のする方を見た。それは、川の中だった。足下の深い淵の水の中をのぞきこむと、そこになにか顔らしいものが見えた。
「水の中から失礼いたしましたが、私はあまり長いこと水から出ますと干上がってしまうものですからね。特にこんな暑い日の日中には」
そう言いながら、顔はゆらゆらと深いところから上がってきて、やがてぽっかりと水面に出てきた。青っぽいような緑がかったような、痩せた貧相な顔である。河童というものにちがいないと、旅人は心に決めた。
「そんな暑い日に、何用があるか」
「はいはい。その暑いので、お願いがあるのでございます。実は私はこの先、二里ばかり行きましたところの大淵に妹がおりましてなあ。常には行き来をするのでございますが、この暑さで途中の川瀬が干上がっておりまして、もうずいぶんと行かれないのでございます。そこで、達者でおることを妹に知らせたく、ここにこのとおり手紙を書きましたので、どうか届けてやっていただけないかと、このようにお願いする次第でございます」
旅人は気味悪く思ったが、行く道筋でもあることであるし、化物に怯えて断ったとあっては人聞きが悪い。邪険なことをして祟りがあっても嫌だと思ったから、涼しい顔で、「よかろう」と答えた。
「それでは、こちらをお願いいたします。大淵の傍まで行って、二股からの使いだと、このようにおっしゃっていただければ、妹が出てきて受け取るはずでございます」
河童はそう言って、一枚の紙を差し出した。真っ白で、何も書いていない紙である。
「これが、手紙か」
旅人は、小馬鹿にしたようにつぶやいた。
「はい、これが私たちの手紙でございます。これで私の無事がわかるのでございます」
「河童の考えていることはわからんな」
旅人はだれに言うともなくそう言って、手紙を受け取った。
大淵というのは、いまの鉄道の駅のあるあたりから下の方にしばらく行ったところにある、両岸の迫ったあたりのことだ。ここに行く道はいまとだいたい同じだからわかると思うが、途中に楞厳寺というお寺がある。この寺の前を旅人が通りかかった。そのときたまたま、寺の和尚が山門の前を掃いていたのが運がよかった。
旅人は、小さく目礼して和尚の前を通りすぎようとした。和尚も何気ない様子で道を掃いておったが、ふと顔をあげると、こう言った。
「待ちなさい。ちょっと気になる相が出ておる」
旅人は、怪訝な顔で振り向いた。
「なにか」
「いや、そういうことではござらん。お前様、なにか大病でもなさっておられるか」
「いえ、このとおり元気で」
旅人は落ち着かない笑いを浮かべた。
「なにかこれから危ない用でも果たされるか」
「いえ、商売の話をつけに行くだけです」
「それではなにか変わったこと、おかしなことでもなかったか」
「いえ、いつものように峠を越えてまいりましたが」
と、ここまで話して、旅人は思い当たった。
「そういえば、二股で奇怪な化物に会いましてなあ」
そして、河童から手紙を託された一部始終を説明した。
「ふむ。その手紙がどうも気になる。見せていただけまいか」
和尚がそう言うのに、旅人は高笑いをした。
「それがなんともはや、何も書いていない白紙でありましてなあ」
そう言いながら取り出した紙を和尚はしばらくじっと眺めていたが、やがてふむとうなずくと、つっと山門に入った。旅人も続いて入る。和尚は手水の柄杓をとると、なにか口の中で経文を唱え、その水を紙にさっとかけた。みるみるうちに、紙には文字が現れた。
「河童の手紙、読んでみなされ」
と和尚が言う。旅人はあまりの不思議に我を忘れていたが、促されるままにそれを読んだ。
手紙は、河童が言ったとおり、日照りでしばらく会えないがお互いに元気でいようというようなとりとめのない挨拶が書いてある。そこはいい。旅人が凍りついたのは、最後の文句だった。
「この手紙を届けた者、せっかくだから取って食え」
旅人は、そう読んで、和尚の顔を見た。和尚は、こくりとうなずいた。
「これは、このままではいかんな」
和尚はそう言うと、突然、いたずらっぽく笑った。
「それではひとつ、災い転じて福となす業といこう」
そして、和尚は袂から矢立と筆を取り出すと、さっきの行を黒く塗りつぶし、その脇に次のように書き足した。
「この手紙を届けた者、褒美として宝を与えるべし」
そしてなにやら経文を唱えると、またもさっきと同じように柄杓の水をかけた。すると、和尚の書いた文字はたちまち消えて、もとのように白い紙が残った。
旅人は、この手紙をもって大淵に向かった。河童に言われたとおりに声をかけると、やはり青い顔をした河童が現れた。河童は手紙を読み終えると、旅人にしばらく待つように言ってから、水底から石臼をひとつ持ってきた。この石臼が旅人にどのような福をもたらしたのか、その話はまた今度することにしよう。