むらの決まりごとというのは、若い人にはわからないかもしれませんな。特に町に住んでいる人には、こういうのはわからんでしょう。この国には、何十万というむらがあります。むかしは区とか部落とかいう言い方をした地方もあるわけですが、呼び方はいろいろですよ。ま、いまはだいたい、自治会みたいな単位になっていたりします。あるいは、もっと小さな隣組みたいな単位とかですな。むらが何かなんて、そこに住んでみなきゃわかりませんよ。住んでればそれが何なのかわかります。
決まりごとはむらごとにちがいますから、こういうことがどこでも言えるのかどうか知りません。ぼくのむらでは、株内の講は毎年の持ち回りでした。株内というのは、親戚みたいなもんです。けど、親戚ともちょっとちがうんですよ。親戚かどうかってことでいったら、むら中が親戚みたいなもんです。どっかでだれかが結婚してますから、どっかで血がつながってるわけです。だから、親戚で集まるといったら、それはどの家が中心になるのかでちがってくる。株というのは、そうじゃないんですね。元は親戚、というか一族なんでしょう。けど、いまはそういう場合もあるし、そうとも言い切れない場合もある。生まれたときから「あの家とあの家は株だ」って教えられて、そして株内のつきあいをやってるわけです。だから、説明する必要もないんですな。住んでいればわかるというのは、むらと同じことです。
講というのは、つまり人が集まることなんでしょう。庚申講なんてのがあって、庚申さんの夜に集会所で年寄りが一晩集まります。寝ちゃいかんのだそうです。株内の講というのは、親睦会でしょう。株内の人が全員集まって、大人は酒を飲むし、子どもは一緒に遊ぶんですな。そういうのを年に一回、持ち回りでやります。
いまは、積み立てをやっておいて、料理屋の仕出しをとるんです。このあたり、なるべく公平に、どの家にも無理がいかないように気をつけているわけです。けれど、むかしはそうじゃありませんでした。だいたいがいまみたいに電話しとけば配達してくれるような仕出しなんてもんがなかったし、いや、あったとしてもとても手が出るもんじゃなかったんでしょう。それぞれの家で、それぞれができる限りのご馳走を用意したんだと思います。ま、お酒は持ち寄ったかもしれませんけどね。
自分たちで、できる範囲で、できるだけ楽しもうってことなんですけど、それでもやっぱり家によって事情ってもんがありますよ。ある貧しい家があったんですね。本道から山の方に上がったお稲荷さんの手前に空き地があります。あそこにはぼくが生まれたときには家が一軒あったんですよ。その家のことだと聞いとります。貧しかったんですな。いや、ぼくが知ってるときはそうでもなかったでしょう。遊びに行ってカルピスをごちそうになったおぼえがあります。もっとむかし、このはなしができたころには、貧しかったらしいんです。
そのころでも、株内の講はありました。持ち回りの番が回ってきたとき、この家には膳も椀も、ろくろくなかったんですな。
いまじゃ使いませんけど、むらの家にはたいていどこにも、膳や椀、皿や鉢が二十や三十、組になってあったものですよ。いまでも水屋をのぞけばあるんじゃないですか。座布団もそのぐらいの数は押入れやら長持ちやらにしまってありましたしね。何に使うかというと、株内の講のときと、葬式のときです。ふだん使いの食器や日用品のほかに、そういうときのためにちゃんと用意がしてあるのがふつうなんですよ。
ところが、この家にはその備えがなかった。たぶん最初っからなかったんじゃなくて、いろいろ事情があって手放したんでしょうな。だから、この年の番が回ってきたときにはじめて、困ったことになった。
竹田川ですけど、いまは工事をしてだいぶ変わったんですが、むかしは瀬もあれば淵もありました。むらからちょっと上手にあるその淵のところに、さて、竹でも切りに行ってたんでしょうな、この家の主がおったときのことです。魚でも釣っとったのかもしれませんが、そんな悠長なことのできる世帯でもなかったと聞いとります。とにかく、この淵の脇で、「困った、困った」と言うとったそうです。
すると、どこからあらわれたのか、年寄りが出てきて、こんなことを言うたそうです。
「何を困ることがあろうか」
見知らぬ人に、ふつうだったらそんなことは話さんだろうと思うんですよ。けれど、この家の主はよっぽどひとりで悩んでおったんでしょうな。話を聞いてくれる人がほしかったんでしょう。それで、今度の株内の番に膳も椀もないことをぽつぽつとしゃべったというんです。
すると、年寄りは笑って言いました。
「それなら、要るだけの数を書いて、この淵に投げ込めばいいんじゃ。なに、それだけのことじゃ。使ったあとは洗って返すのを忘れるなよ」と。
そして、気がついたら年寄りはどこかに消えておったそうです。
夢でも見ていたのかと思いますよ。そりゃそうです。けど、ものは試しです。何も損をするわけじゃありませんからね。それで、この家の主は、人数分の数を紙に書きつけて、淵に投げ込んでおいたんですな。そして、次の日に、あまり期待もせんで淵に行ってみると、ちゃんと書いた数だけの膳や椀が淵のそばに揃えて置いてあったというんです。
この家の主の偉いところは、株内の講のときに、この話を悪びれもせずに皆の前で言ったことなんでしょうな。ふつう、やっぱり恥だと思うんですよ。貧乏は隠しておきたいもんです。けど、あまりにめずらしい話でもあるし、なにより実際に目の前にその食器が並んでいるわけですから。
すると、むらの中から、「自分も借りたい」「うちでも貸してもらえんじゃろうか」という話が次から次へと出てきたんだそうです。おかしなもんで、皆、それなりに見栄をはっていたけど、けっこう苦しいやりくりをしていたんですな。そんな人たちに、この家の主は気前よく、年寄りに聞いた通りを教えてやったそうです。
こうして、むらのひとたちは、何かにつけ、淵から膳や椀を借りるようになったそうです。いつの間にやらこの淵は貸し椀の淵と呼ばれるようになったそうですが、それがいまでは河川改修で淵でも何でもなくなって、ようやくあそこのすぐ下の橋に柏葉橋という名前で残ってますけど、あれはほんとは貸し椀だったそうです。
いえ、ずいぶん長いこと、椀を借りに行く習慣は残っていたらしいんですよ。けど、あるとき、誰かが椀をひとつだけ、返さなかったんですな。気に入ってしまったんでしょう。自分のものにしたかったんでしょう。
それからです。もういくら数を書いた紙を投げ込んでも、膳も椀も、出てこなくなったということです。その椀は、私が生まれた頃はまだ母屋にありました。ま、私のご先祖が返さなかった本人だとは思いたくはないんですけれど。
決まりごとはむらごとにちがいますから、こういうことがどこでも言えるのかどうか知りません。ぼくのむらでは、株内の講は毎年の持ち回りでした。株内というのは、親戚みたいなもんです。けど、親戚ともちょっとちがうんですよ。親戚かどうかってことでいったら、むら中が親戚みたいなもんです。どっかでだれかが結婚してますから、どっかで血がつながってるわけです。だから、親戚で集まるといったら、それはどの家が中心になるのかでちがってくる。株というのは、そうじゃないんですね。元は親戚、というか一族なんでしょう。けど、いまはそういう場合もあるし、そうとも言い切れない場合もある。生まれたときから「あの家とあの家は株だ」って教えられて、そして株内のつきあいをやってるわけです。だから、説明する必要もないんですな。住んでいればわかるというのは、むらと同じことです。
講というのは、つまり人が集まることなんでしょう。庚申講なんてのがあって、庚申さんの夜に集会所で年寄りが一晩集まります。寝ちゃいかんのだそうです。株内の講というのは、親睦会でしょう。株内の人が全員集まって、大人は酒を飲むし、子どもは一緒に遊ぶんですな。そういうのを年に一回、持ち回りでやります。
いまは、積み立てをやっておいて、料理屋の仕出しをとるんです。このあたり、なるべく公平に、どの家にも無理がいかないように気をつけているわけです。けれど、むかしはそうじゃありませんでした。だいたいがいまみたいに電話しとけば配達してくれるような仕出しなんてもんがなかったし、いや、あったとしてもとても手が出るもんじゃなかったんでしょう。それぞれの家で、それぞれができる限りのご馳走を用意したんだと思います。ま、お酒は持ち寄ったかもしれませんけどね。
自分たちで、できる範囲で、できるだけ楽しもうってことなんですけど、それでもやっぱり家によって事情ってもんがありますよ。ある貧しい家があったんですね。本道から山の方に上がったお稲荷さんの手前に空き地があります。あそこにはぼくが生まれたときには家が一軒あったんですよ。その家のことだと聞いとります。貧しかったんですな。いや、ぼくが知ってるときはそうでもなかったでしょう。遊びに行ってカルピスをごちそうになったおぼえがあります。もっとむかし、このはなしができたころには、貧しかったらしいんです。
そのころでも、株内の講はありました。持ち回りの番が回ってきたとき、この家には膳も椀も、ろくろくなかったんですな。
いまじゃ使いませんけど、むらの家にはたいていどこにも、膳や椀、皿や鉢が二十や三十、組になってあったものですよ。いまでも水屋をのぞけばあるんじゃないですか。座布団もそのぐらいの数は押入れやら長持ちやらにしまってありましたしね。何に使うかというと、株内の講のときと、葬式のときです。ふだん使いの食器や日用品のほかに、そういうときのためにちゃんと用意がしてあるのがふつうなんですよ。
ところが、この家にはその備えがなかった。たぶん最初っからなかったんじゃなくて、いろいろ事情があって手放したんでしょうな。だから、この年の番が回ってきたときにはじめて、困ったことになった。
竹田川ですけど、いまは工事をしてだいぶ変わったんですが、むかしは瀬もあれば淵もありました。むらからちょっと上手にあるその淵のところに、さて、竹でも切りに行ってたんでしょうな、この家の主がおったときのことです。魚でも釣っとったのかもしれませんが、そんな悠長なことのできる世帯でもなかったと聞いとります。とにかく、この淵の脇で、「困った、困った」と言うとったそうです。
すると、どこからあらわれたのか、年寄りが出てきて、こんなことを言うたそうです。
「何を困ることがあろうか」
見知らぬ人に、ふつうだったらそんなことは話さんだろうと思うんですよ。けれど、この家の主はよっぽどひとりで悩んでおったんでしょうな。話を聞いてくれる人がほしかったんでしょう。それで、今度の株内の番に膳も椀もないことをぽつぽつとしゃべったというんです。
すると、年寄りは笑って言いました。
「それなら、要るだけの数を書いて、この淵に投げ込めばいいんじゃ。なに、それだけのことじゃ。使ったあとは洗って返すのを忘れるなよ」と。
そして、気がついたら年寄りはどこかに消えておったそうです。
夢でも見ていたのかと思いますよ。そりゃそうです。けど、ものは試しです。何も損をするわけじゃありませんからね。それで、この家の主は、人数分の数を紙に書きつけて、淵に投げ込んでおいたんですな。そして、次の日に、あまり期待もせんで淵に行ってみると、ちゃんと書いた数だけの膳や椀が淵のそばに揃えて置いてあったというんです。
この家の主の偉いところは、株内の講のときに、この話を悪びれもせずに皆の前で言ったことなんでしょうな。ふつう、やっぱり恥だと思うんですよ。貧乏は隠しておきたいもんです。けど、あまりにめずらしい話でもあるし、なにより実際に目の前にその食器が並んでいるわけですから。
すると、むらの中から、「自分も借りたい」「うちでも貸してもらえんじゃろうか」という話が次から次へと出てきたんだそうです。おかしなもんで、皆、それなりに見栄をはっていたけど、けっこう苦しいやりくりをしていたんですな。そんな人たちに、この家の主は気前よく、年寄りに聞いた通りを教えてやったそうです。
こうして、むらのひとたちは、何かにつけ、淵から膳や椀を借りるようになったそうです。いつの間にやらこの淵は貸し椀の淵と呼ばれるようになったそうですが、それがいまでは河川改修で淵でも何でもなくなって、ようやくあそこのすぐ下の橋に柏葉橋という名前で残ってますけど、あれはほんとは貸し椀だったそうです。
いえ、ずいぶん長いこと、椀を借りに行く習慣は残っていたらしいんですよ。けど、あるとき、誰かが椀をひとつだけ、返さなかったんですな。気に入ってしまったんでしょう。自分のものにしたかったんでしょう。
それからです。もういくら数を書いた紙を投げ込んでも、膳も椀も、出てこなくなったということです。その椀は、私が生まれた頃はまだ母屋にありました。ま、私のご先祖が返さなかった本人だとは思いたくはないんですけれど。